オスマン帝国の12〜29代スルタン(君主)の解説記事です。
オスマン帝国は建国から滅亡までオスマン家の全36人がスルタンに即位しており、一度も断絶することなく何と600年も続きました(1299〜1922年)。これは世界史の中でもかなり珍しい国家と言えます。
オスマン帝国の歴史を以下のように3つの時代に分け、全3記事構成で解説します。オスマン帝国の各スルタンはどんな人物で歴史上どんな功績を残したのか、ざっくり分かりやすく紹介していきます。
- 前期:初代〜11代スルタン 建国→全盛期
- 中期:12代〜29代スルタン 権威の衰退→領土喪失
- 後期:30代〜36代スルタン 近代化→滅亡
この記事は、中期:12代〜29代スルタンまでの内容です。スルタンの権威衰退→領土喪失のはじまりの歴史を紐解いていきます。
- オスマン家系図(12〜29代)
- スルタンの権威衰退→領土喪失の大まかな流れ
- ⑫ムラト3世:ハレムに溺れた王
- ⑬メフメト3世:19人殺しの王
- ⑭アフメト1世:世界で一番美しいモスク建造
- ⑮ムスタファ1世:初の兄弟即位
- ⑯オスマン2世:イェニチェリに殺害された若人王
- ⑰ムラト4世:容赦のない嫌煙家
- ⑱イブラヒム:奇行に走る狂人王
- ⑲メフメト4世:最大領土へ
- ⑳スレイマン2世/㉑アフメト2世:40年幽閉された人生
- ㉒ムスタファ2世:領土喪失のはじまり
- ㉓アフメト3世:チューリップ時代 束の間の平和
- ㉔マフムト1世:再び対外戦争へ
- ㉕オスマン3世/㉖ムスタファ3世:ロシアの南下政策スタート
- ㉗アブデュルハミト1世:アーヤーンの台頭→地方分権化
- ㉘セリム3世/㉙ムスタファ4世:西洋式軍隊の創設
オスマン家系図(12〜29代)
12代〜29代までのスルタンの時代(1574〜1808年)は、オスマン帝国のスルタンの権威の衰退→領土喪失のはじまりです。以下は12代〜29代までの家系図です。

スルタンの権威衰退→領土喪失の大まかな流れ
12代〜29代スルタンの大まかな歴史の流れを解説します。
オスマン帝国初期のスルタンと違い、この時代はスルタンの権威が徐々に衰退していき、スルタンの取り巻き(母后や大宰相、イスラム長老、イェニチェリなど)が実権を握る時代でした。政権争いもあり、政治が度々不安定になりました。
また、メフメト4世の時代にオスマン帝国の最大領土が実現しますが、同時期の「第二次ウィーン包囲」での大敗をきっかけに領土喪失が始まりました。建国以来ほぼ負けなしできたオスマン帝国でしたが、この時代になるとヨーロッパ諸国の軍事力に劣るようになり、立て続けに戦争に負け、領土喪失が加速化しました。18世紀以降はロシアと何度も対立し、南下政策に苦しめられました。
衰退の時代ではありましたが、「チューリップ時代」のように西洋文化が花開き、また経済も成長した時期でもありました。
⑫ムラト3世:ハレムに溺れた王
12代目スルタンのムラト3世です。

(在位1574~95年)
外交・戦争
■オスマン・サファヴィー戦争(1578):VSサファヴィー朝→勝ち→コーカサス地方獲得
■長期トルコ戦争(1593~):VSハプスブルク家→ハンガリー北部・西部を巡る対立
国内
■大宰相ソコルルを暗殺
■現在のハレムが完成
■徴税請負制:ティマール制廃止→後のジェラーリーの反乱に繋がる
ムラト3世は、先代セリム2世のように権限を官僚に委ねることを嫌い、スレイマン1世時代からの有能な大宰相ソコルル・メフメト・パシャを殺害し、自らの権威を高めようとしました。ムラト3世の治世は大宰相が10回以上交代するという異例の時代でした。
1578年から12年間「オスマン・サファヴィー戦争」にてサファヴィー朝と対決し、アゼルバイジャン含むコーカサス地方を獲得しました。1593年からは「長期トルコ戦争」が始まりました。ハンガリーの北部・西武のハプスブルク領に侵攻し、ハプスブルク家と対決しました。一進一退の状況で14代アフメト1世の時代(1606年)に終戦しました。
長期間の遠征やイェニチェリの増員、新たな武器の導入などで財政は悪化していきました。状況を打破するために今までのティマール制を廃止して新たに「徴税請負制度」を導入しました。ティマール制はトルコ騎兵シパーヒーに土地と徴税権を与える仕組みで、帝国には税収はありませんでしたが、徴税請負制度では土地を没収し、そこに徴税請負人を配置したためオスマン帝国の税収は増えました。しかし、この制度は土地を没収されたシパーヒーらによる反乱のきっかけとなりました。
また、この時代にトプカプ宮殿内にハレムが建造されました(今までのハレムは宮殿外にあった)。ムラト3世はハレムに入り浸り快楽のために国費を乱用したため、帝国の財政はさらに悪化して衰退の原因を作りました。
ムラト3世は勃起不全でしたが、手術の副作用?で性欲が増大し、100人以上子供(うち男子は19人)をもうけたとのことです。
⑬メフメト3世:19人殺しの王
13代目スルタンのメフメト3世です。

(在位1595~1603年)
国内
■兄弟19人殺して即位
■ジェラーリーの反乱(1596~)
■大宰相vsイスラム長老の権力闘争→イェニチェリや常備騎兵も加わり争い激化
メフメト3世の治世はオスマン帝国の衰退が本格的に始まった時代です。彼は即位にあたり、オスマン帝国の慣行通り、19人の男子兄弟を殺害しました。葬儀の列が長蛇になり、民衆は嘆き悲しんだと言われています。
前スルタン時代に始まった長期トルコ戦争が行われる一方で、国内の情勢は不安定でした。1596年に「ジェラーリーの反乱」が始まりした。これはティマール制の廃止により土地を奪われたシパーヒーや貧困化した農民らによる大規模な中央政府への反乱でした。また、宮廷では大宰相とイスラム長老(イスラム法学者のトップ)が対立し、イェニチェリや常備騎兵も巻き込んだ政争が勃発しました。
このようにスルタンの権威が帝国内に及ばなくなる中、メフメト3世は暴飲暴食が原因で死去しました。
⑭アフメト1世:世界で一番美しいモスク建造
14代目スルタンのアフメト1世です。

(在位1603~17年)
外交・戦争
■長期トルコ戦争終了(~1606)→ハプスブルク家との和平
■オスマン・サファヴィー戦争(1603):VSサファヴィー朝(アッバース1世)→負け→コーカサス地方失う
国内
■兄弟粛清の慣行を否定→弟ムスタファを幽閉
■ジェラーリー反乱鎮圧(~1609)
■スルタンアフメト・モスク建設(1609~16)
アフメト1世は即位時13歳だったため、母后のハンダン・スルタンが政治を行いました。アフメト1世は温厚な性格であり、オスマン帝国の兄弟粛清の慣行を否定しました。父メフメト3世が19人の兄弟を殺害したことが衝撃的だったこともあるかと思いますが、自身の兄弟(ムスタファ)を殺害はせずトプカプ宮殿の一室に幽閉するに留めました。これ以降オスマンの兄弟粛清の慣習は無くなりました。
国内での出来事に関しては、まず先代から続いていたジェラーリーの反乱を1609年頃までに鎮圧しました。あとアフメト1世と言えば、現在でもイスタンブールの観光名所となっている「スルタンアフメト・モスク」(1609〜1616年)の建造です。内部には数万の青い装飾タイルが施され、別名「ブルーモスク」と呼ばれており、世界で一番美しいモスクと評されています。
また、外交に関しては、ムラト3世時代から続いていた「長期トルコ戦争」が1606年ハプスブルク家との和平により終結しました。その一方で東側では1603年からアッバース1世率いるイランのサファヴィー朝と争い、1607年頃までにムラト3世時代に獲得したコーカサス地方を失いました。
⑮ムスタファ1世:初の兄弟即位
15代目スルタンのムスタファ1世です。先代アフメト1世の弟です。

(在位1617~18年/1622~23年)
ムスタファ1世は2度即位しましたが、どちらも短命に終わっています。
今までは帝位継承者は現スルタンの息子でしたが、ここに来て初の兄弟の即位となりました。これは大宰相らの思惑があったと言われています。ムスタファ1世以降、現スルタンが退位した場合、最年長の者がスルタンを継ぐのが慣例となりました。
ムスタファ1世は14年間も幽閉されていたせいか、精神的に病んでいました。そのためムスタファ1世の治世は母后であるハリメ・スルタンが政治を行いました。さらにムスタファ1世は女性嫌いであったため子供を1人も作りませんでした。
⑯オスマン2世:イェニチェリに殺害された若人王
16代目スルタンのオスマン2世です。14代アフメト1世の息子です。

(在位1618~22年)
外交・戦争
■ポーランド遠征(1621)→失敗
国内
■メッカ巡礼宣言(1622)→イェニチェリにより殺害
オスマン2世は14歳で即位したため「若人王」と呼ばれています。彼の治世の主な出来事は1621年の「ポーランド遠征」です。黒海沿岸にいた民族コサックが南下をしてイスタンブールを襲撃することがあり、その裏でポーランドが支援していると主張して(真偽不明)、遠征に出ました。スルタンの権威を確立するつもりだったと言われていますが遠征は失敗に終わりました。
また、1622年にメッカ巡礼を宣言しましたが、どう間違ったのかオスマン2世がシリアへ行ってイェニチェリに代わる軍団を創設しようとしているという噂が広まり、メッカに行くことなくイェニチェリに殺害されてしまいました。オスマン2世の崩御後は前スルタンのムスタファ1世が復位しましたが、1年半ほどで退位しました。
⑰ムラト4世:容赦のない嫌煙家
17代目スルタンのムラト4世です。先代オスマン2世の弟です。

(在位1623~40年)
外交・戦争
■オスマン・サファヴィー戦争(1623):VSサファヴィー朝(アッバース1世)→カスレ・シーリーン条約→現在のトルコとイランの国境の基礎ができる
国内
■厳格な社会規律を求める:酒、タバコ、コーヒー禁止
ムラト4世は12歳での即位だったため、幼少期は母后キョセム・スルタンが政治をとりました。かなり短期な性格で、成人後はイスラム原理主義カドゥザーデ派をバックに厳格な社会規律を求めました。酒やタバコ、コーヒーなどは規律を乱すものとして禁止にし、守れない者や自分に敵対する者を容赦なく処刑しました。ムラト4世は特にタバコを嫌い、イスタンブールの喫煙者3万人が処罰されたと言われています。
対外政策としては1623年に「オスマン・サファヴィー戦争」をはじめ、アッバース1世のサファヴィー朝と対決しました。一時はバグダードやエレヴァン(アルメニア)を征服しましたが、後に奪還され、最終的にカスレ・シーリーン条約で和平をしました。この条約は後のトルコとイランの国境線の基礎となりました。
⑱イブラヒム:奇行に走る狂人王
18代目スルタンのイブラヒムです。先代ムラト4世の弟です。

(在位1640~48年)
外交・戦争
■クレタ島遠征(1645~):VSヴェネツィア
国内
■権力争い:大宰相、イスラム長老、母后キョセム、イェニチェリなど
兄弟の即位が続きました。14代~19代スルタンの家系図を整理すると以下のようになります。

イブラヒムは24年間トプカプ宮殿の一室に幽閉されてたこともあり、15代ムスタファ1世と同じように精神的に病んでいた人物でした。息子(メフメト4世)をプールに投げ込む、ハレムの女性ら280人を袋詰めにして海に投げ込む、1日20人以上と性行為をするなど、常軌を逸した奇行が目立ちしました。それもあり、民衆からは「狂人王」と呼ばれていました。また、母后キョセム・スルタンが政治の実権を握っていましたが、大宰相やイスラム長老、イェニチェリを巻き込んだ権力争いもありました。
1645年にクレタ戦争をはじめ、当時クレタ島を領有していたヴェネツィアと争いました。クレタ戦争は次期スルタンのメフメト4世時代の1669年まで続き、最終的にはオスマン帝国の支配下となりました。
イブラヒムはその奇行もあって、最後は廃位にされ、殺害されました。
⑲メフメト4世:最大領土へ
19代目スルタンのメフメト4世です。先代イブラヒムの息子です。

(在位1648~87年)
外交・戦争
■クレタ戦争終結(1669):VSヴェネツィア→勝ち→クレタ島を完全征服
■ポーランドとの抗争(1672):ウクライナを巡る戦争→勝ち→ポーランド領のポリージャを占領→オスマン帝国は最大領土へ
■第二次ウィーン包囲(1683):VSハプスブルク家/ヨーロッパ連合軍→負け
■大トルコ戦争(1683~):VS神聖同盟(オーストリア/ロシア/ポーランド/ヴェネツィア)
国内
■権力争い:祖母キョセムVS母トゥルハン→キョセム暗殺
■大宰相にキョプリュリュ家就任→キョプリュリュ時代へ(キョプリュリュ家が政権運営)
メフメト4世の治世では宮廷の血生臭い権力争いがありました。また、オスマン帝国が最大領土を獲得した時代でもあり、領土喪失のきっかけを作った時代でもありました。
即位時メフメト4世はわずか7歳であったため先代と同じように祖母のキョセム・スルタンが実権を握っていましたが、母后トゥルハン・スルタンが対立し、最終的にキョセムはトプカプ宮殿で暗殺されました。トゥルハンは大宰相に当時80歳だったキョプリュリュ・メフメト・パシャを抜擢し、宮廷内の混乱を収めました。キョプリュリュ・メフメト・パシャは国内の反乱分子を一掃して権力を掌握しました。これ以降しばらく大宰相にはキョプリュリュ家が着く時代が続きました(キョプリュリュ時代)。メフメト4世は政治はキョプリュリュ家に任せて、自分は趣味の狩猟ばかりしていたので「狩人王」と呼ばれていました。また、彼は狩猟で立ち寄った街の異教徒にイスラム教を布教し続けており、「改宗させる者」とも呼ばれていました。これは宗教的偉業として評価されました。
対外戦争としては、キョプリュリュ・メフメト・パシャの後を継いだ息子のファーズル・メフメト・パシャが、先代から続いていたクレタ戦争にてクレタ島を完全征服し、1669年に終結させました。1672年にはウクライナを巡ってポーランドと争い、ポーランド領のポリージャを占領しました。この時をもってオスマン帝国は最大領土となりました。
その後ファーズル・メフメト・パシャの後を継いだのは弟メルズィフォンル・カラ・メフメト・パシャでした。彼はハプスブルク家と対立し、1683年「第二次ウィーン包囲」を行いましたが、長期戦になり反オスマンを掲げて集まったヨーロッパ諸国軍により敗北しました。これを契機に神聖同盟(オーストリア/ロシア/ポーランド/ヴェネツィア)との「大トルコ戦争」が始まりました。16年間も続き、終結したのは22代スルタンのムスタファ2世の時代でした。
最大領土になったばかりのオスマン帝国でしたが、第二次ウィーン包囲は領土縮小の始まりのきっかけとなりました。メフメト4世は責任を取り廃位となりました。
⑳スレイマン2世/㉑アフメト2世:40年幽閉された人生
20代目スルタンのスレイマン2世と21代目スルタンのアフメト2世です。2人とも先代メフメト4世の弟で兄弟即位となります。
どちらも40年近くトプカプ宮殿の一室で幽閉されていました。この時代の平均寿命から考えるとほぼ人生の全てを幽閉で過ごしたことになります。兄弟殺しの慣行は無くなりましたが、幽閉もかなり非人道と言えます。
2人は在位期間は短く、特筆すべきものはありませんが、先代で始まった大トルコ戦争はまだ続いており、オスマン帝国はかなり劣勢な戦況でした。
㉒ムスタファ2世:領土喪失のはじまり
22代目スルタンのムスタファ2世です。19代メフメト4世の息子です。

(在位1695~1703年)
外交・戦争
■大トルコ戦争終結→和平条約で大幅な領土縮小へ(領土喪失のはじまり)
■カルロヴィッツ条約(1699):ハンガリーやトランシルヴァニアなどを失う
■イスタンブール条約(1700):アゾフを失う
国内
■エディルネ事件(1703):退位(オスマン版名誉革命)
ムスタファ2世の治世での大きな出来事はメフメト4世時代から続いていた大トルコ戦争が集結したことです。ヨーロッパ諸国の神聖同盟にオスマン側がかなり苦戦しており、もはや初期の圧倒的な強さはありませんでした。1699年に結ばれた「カルロヴィッツ条約」によりオーストリアにハンガリーとトランシルヴァニア、ヴェネツィアにモレア、ポーランドにポリージャを割譲し、1700年ロシアと単独で結んだ「イスタンブール条約」では黒海沿岸のアゾフを喪失しました。これまでのオスマン史では考えられない圧倒的な領土喪失でした。これ以降ヨーロッパ諸国の軍事力にオスマン帝国は劣勢になり、領土喪失が不可避になっていきます。
1703年ムスタファ2世はエディルネへ移り住みました。イスタンブールでは側近のイスラム長老フェイズッラー・エフェンディが政治を取りました。彼の政治には不満を持つ者も多く、グルジア遠征の給料が未払いとなっている200名のイェニチェリに高官、ウラマー、商人らも加わった6万人もの大集団がムスタファ2世のいるエディルネに押しかけました。これが原因でムスタファ2世は退位となりました。これは「エディルネ事件」と呼ばれています。血がほぼ流れなかった革命であったため、オスマン版名誉革命と言われています。
㉓アフメト3世:チューリップ時代 束の間の平和
23代目スルタンのアフメト3世です。先代ムスタファ2世の弟です(19代メフメト4世の息子)です。

(在位1703~30年)
外交・戦争
■サファヴィー朝との争い
国内
■チューリップ時代:フランス文化の輸入→オスマン帝国は束の間の平和を享受し、華やかな西欧風な文化が開花
アフメト3世の前半の治世は対外戦争を繰り返しており、ロシア、オーストリア、ヴェネツィアと対立していましたが、途中から平和政策に転換しました。フランス文化が積極的に取り入れられ、軍事支出も減り、財政も安定しはじめました。オスマン帝国は束の間の平和を享受し、華やかな西欧風な文化が開花しました。西欧からチューリップを輸入し栽培・鑑賞することが流行ったため、アフメト3世の時代を「チューリップ時代」と呼んでいます。西欧風な建造物もたくさん造られました。また、輸入された活版印刷の技術により書籍が増え、民衆の知識のレベルアップにも繋がりました。
西欧文化を取り入れた一方、東方面に関しては宿敵サファヴィー朝との争いがありました。長期間に渡ったため財政が圧迫され、民衆の不満が高まり、これが原因でアフメト3世は退位しました。
㉔マフムト1世:再び対外戦争へ
24代目スルタンのマフムト1世です。22代ムスタファ2世の息子です。

(在位1730~54年)
外交・戦争
■サファヴィー朝と対立→和平(1735)
■ナーディル・シャーがサファヴィー朝を滅ぼしアフシャール朝創始(1736)→オスマンと対立→和平→現在のトルコとイランの国境が決まる
■ロシア・オーストリア・トルコ戦争(1735)→和平
マフムト1世はアフメト3世の西欧化政策を引き継ぐも、再びヨーロッパ諸国との戦争に突入しました。
まず東方面ですが、先代に始まったサファヴィー朝との戦争は継続しており、1735年に和平となりました。翌年サファヴィー朝はナーディル・シャーにより滅ぼされ、イランには新たに「アフシャール朝」が成立しました。1743年にアフシャール朝はオスマン帝国とも戦争ましたが、最終的に和平条約が結ばれました。この条約により現在のトルコとイランの国境が決まりました。
チューリップ時代ではしばらくヨーロッパ諸国とは戦争がありませんでしたが、1735年新たな敵であるロシアとその同盟国と対立し「ロシア・オーストリア・トルコ戦争」が勃発しました。数年で和平が結ばれ、イランのアフシャール朝とも停戦し、1768年の第一次露土戦争までは平和を保ちました。
しかし国内では地方の分権化やイェニチェリの軍事力の低下の腐敗など、オスマン帝国の支配は不安定になっていきました。そんな中、マフムト1世は心臓発作のため崩御しました。
㉕オスマン3世/㉖ムスタファ3世:ロシアの南下政策スタート
25代目スルタンのオスマン3世(先代マフムト1世の弟で、22代ムスタファ2世の息子)と26代目スルタンのムスタファ3世(23代アフメト3世の息子)です。
外交・戦争
■第一次露土戦争(1768~):VSロシア(エカチェリーナ2世)→ロシアの南下政策の始まり→敗戦続き
オスマン3世は在位期間はわずか3年のため目立った実績はありません。先代まで続いていた西欧風な派手な文化を嫌い、様々な対抗措置を取りましたが効果はありませんでした。また、音楽嫌い、女性嫌いでもありました(子供は作らず)。
26代目のムスタファ3世は知的なスルタンで、帝国が西欧列強に遅れを取っていることを理解し、軍隊や国家制度の近代化を進めようしましたが、旧勢力により激しい抵抗を受けました。
ムスタファ3世はオスマン帝国の軍事力が劣勢であることを分かっていたので戦争は避けていましたが、ロシア軍がオスマン帝国領に侵入してきたため、開戦せざるを得ませんでした。1768年「第一次露土戦争」です。今までもロシアとは何度か対立していましたが、今回は単独での争いとなり、これ以降オスマン帝国はロシアの南下政策に苦戦することになります。ロシアの南下政策とは、ロシア領土にある港が冬に凍結するため、1年中使える港を獲得しようと黒海やバルカン半島、中央アジア、東アジアへ勢力を拡大しようとした対外政策のことです。敗戦続きで絶望的な状況の中、ムスタファ3世は病死により崩御しました。
㉗アブデュルハミト1世:アーヤーンの台頭→地方分権化
27代目スルタンのアブデュルハミト1世です。先代ムスタファ3世の弟です(23代目アフメト3世の息子)。

(在位1774~89年)
外交・戦争
■第一次露土戦争終結(1774)→負け→キュチュク・カイナルジ条約→アゾフ海/ドニエプル河口/ケルチ喪失、属国クリム・ハン国独立(1784年にロシアが併合)
■第二次露土戦争(1787~):VSロシア(エカチェリーナ2世)
国内
■アーヤーン(地方の有力者)の台頭→地方分権化
アブデュルハミト1世の治世は敗戦による領土喪失がありましたが、人々の声に耳を傾けた勤勉な人物であり、イスタンブールにマドラサ、小学校、図書館など多くの建築物を建てました。
即位直後に先代から続いていた第一次露土戦争が1774年に終結しました。結果は負けで、キュチュク・カイナルジ条約でアゾフ海、ドニエプル河口、ケルチを失いました。また、最大の屈辱は長年属国だったクリム・ハン国が独立(ロシアの保護国化)したことでした。ロシアの黒海の自由航行権も認められ、オスマン帝国は事実上黒海の制覇権を喪失しました。

Wikipediaより
独立したクリム・ハン国は依然としてオスマン帝国に従う姿勢だっため、1783年にロシアは強制的に併合しました。これを機に1787年に始まった「第二次露土戦争」にてオスマン帝国は再びロシアと対決しました。ロシアにオーストリアも加わり、第一次と同じようにオスマン帝国の戦況は不利でした。
また、国内に関しては中央集権体制を維持できなくなりつつありました。オスマン帝国の税収を上げるために12代ムラト3世の時代からはじまった徴税請負制度でしたが、18世紀後半頃から各地の徴税請負人らが在地化し、半独立の勢力として台頭しました。彼らは「アーヤーン」と呼ばれ、中央はアーヤーンの勢力を抑えることができず、地方分権化が進みました。
㉘セリム3世/㉙ムスタファ4世:西洋式軍隊の創設
28代目スルタンのセリム3世(26代ムスタファ3世の息子)と29代目スルタンのムスタファ4世(先代アブデュルハミト1世の息子)です。
外交・戦争
■第二次露土戦争終結(1792)→負け→ヤッシーの講和→エディサン地方のロシアへ割譲、ロシアのクリミア半島領有承認
国内
■ニザーム・ジェディード創設:西洋式新軍隊→フランス(ナポレオン)のエジプト遠征を撃退
先代から続いていた第二次露土戦争が1792年に集結しました。オスマン側の負けで、敗戦条約である「ヤッシーの講和」ではエディサン地方(ジョージア)のロシアへ割譲、クリミア半島のロシア領有(クリム・ハン国の併合承認)が認められました。これによりロシアは黒海北部全体を支配することになりました。

Wikipediaより
この頃、オスマン帝国の主力部隊であるイェニチェリはすでに時代遅れで、政治に頻繁に介入する腐敗した組織になっていました。そこでセリム3世はオスマン帝国を再興させるために、1793年に近代化政策の一貫として新たに西洋式新軍隊「ニザーム・ジェディード」を創設しました。ニザーム・ジェディードは「新たな秩序」という意味です。1798年フランスのナポレオン軍のエジプト遠征ではニザーム・ジェディードが活躍しフランス軍に勝利しました。
また、オスマン帝国は第一露土戦争のキュチュク・カイナルジ条約の規定を破って、ボスポラス海峡およびダーダネルス海峡のロシアの船の自由通航権を停止したため、1806年ロシアと「第三次露土戦争」に突入しました。
対外戦争でニザーム・ジェディードは活躍しましたが、既得権益を守ろうとしたイェニチェリをはじめとした反改革派によりニザーム・ジェディードは解散、セリム3世は廃位に追い込まれました。
その後即位した29代目スルタンのムスタファ4世(アブデュルハミト1世の息子)は、自分の地位が脅かされることを恐れ、幽閉中の先代セリム3世を殺害しました。しかし改革推進派により新たにマフムト2世がスルタンに擁立され、ムスタファ4世は廃位、殺害されました。わずか1年間の即位でした。









