トルコのざっくりした歴史解説と世界遺産の紹介です。トルコはヨーロッパとアジアを結ぶアナトリア半島(小アジア)に位置しています。

アナトリア半島は東西の文明の交差路であり、古代から様々な民族が支配してきました。現在のトルコ共和国を主に構成する民族トルコ人がこの地にやってくるのは11世紀以降です。
この記事ではトルコの歴史を年表も踏まえてざっくり解説していきます。なるべく分かりやすく簡単に解説していきます。またトルコの世界遺産も紹介します。
トルコの歴史年表
トルコの歴史のざっくりした年表を作成しました。トルコの歴史の流れを大きく捉えると、①古代オリエント時代→②ヘレニズム時代→③ローマ・ビザンツ帝国時代→④アナトリアのトルコ化→⑤オスマン帝国時代→⑥トルコ共和国時代、となるかなと思います。

古代オリエント時代
現在のトルコがあるアナトリア半島は古代より東西文明の交差点であり、様々な民族が支配してきました。主なものを順番に解説していきます。
- アナトリア半島内陸部:ヒッタイト王国→フリギア王国→リディア王国→アケメネス朝ペルシア
- エーゲ海沿岸部:ギリシア人の植民都市
ヒッタイト王国(BC1680年頃〜BC1200年頃)
インド=ヨーロッパ語族に属するヒッタイト人による「ヒッタイト王国」です。紀元前1680年頃にアナトリア半島に成立しました。紀元前1595年頃、メソポタミア地方の古バビロニア王国を滅ぼしました。「鉄の帝国」と呼ばれ、鉄製武器や戦車などの強力な軍事力で周辺国を圧倒しました。

紀元前1286年のエジプト新王国との戦い(カデシュの戦い)は引き分けとなり、戦後エジプトのラメセス2世との間で世界初と言われる平和条約が締結されました。内容が記された粘土板が発見されています。
紀元前1200年頃「海の民」により滅亡したと言われています。
ボアズカレに首都ハットゥシャの広大な遺跡が残っています。世界遺産に登録されています。
フリギア王国(BC8世紀頃~BC7世紀頃)
ヒッタイトの後に登場した「フリギア(フリギュア)王国」です。フリギア人は紀元前12世紀頃からアナトリアで活動していましたが、BC8世紀頃フリギア王国が建国されました。

2代目国王のミダス王は、「ミダス・タッチ」や「王様の耳はロバの耳」といった現在でも語り継がれるお話に出てくる人物です。
紀元前7世紀末頃にキンメリア人(南ウクライナの騎馬民族)の侵入により王国は終焉しました。その後はリディアやアケメネス朝ペルシアなどの大国に組み込まれました。
フリギア王国の首都ゴルディオンの遺跡は現在も残っており、世界遺産となっています。
エーゲ海沿岸部(ギリシア人植民都市)
アナトリア半島の内陸部で大国が成立する一方、西のエーゲ海沿岸部では紀元前8世紀頃から古代ギリシア人の一派であるイオニア人が入植し、「ミレトス」や「エフェソス」など植民都市を建設しました。

後にローマ・ビザンツ帝国の首都となるコンスタンティノープルの前身である「ビザンティオン(ビザンティウム)」も、ギリシア人により建設された植民都市です。
リディア王国(BC7世紀頃~BC547年)
フリギア王国の次に出てきたのは「リディア(リュディア)王国」です。大帝国アッシリア滅亡のメソポタミア地域4国分立時代に、アナトリアを支配しました。世界で初めて金属貨幣を鋳造した国として有名です。

クロイソス王の時代に全盛期となり、エーゲ海沿岸のギリシア植民都市を征服しました。エフェソスには世界の七不思議の一つであるアルテミス神殿が建設されました。クロイソス王はアケメネス朝ペルシアのキュロス2世との戦いで負け、紀元前547年にリディア王国は滅亡しました。
リディア王国の首都サルディスの都市遺跡と王族の墓が現在も残っており、世界遺産に登録されています。
アケメネス朝ペルシア(BC550年~BC330年)
西アジアからヨーロッパ、アフリカにまで跨る世界帝国「アケメネス朝ペルシア」です。イラン人(ペルシア人)の国家です。以下は最大領土の地図です。

ダレイオス1世の全盛期には、中央が任命したサトラップ(行政官)が地方に派遣され、またスサからサルディスまで「王の道」という幹線道路を敷くなど、中央集権体制が強化されました。
紀元前500年~紀元前449年、イオニアの反乱(アケメネス朝支配下のギリシア人植民都市の反乱)をきっかけに、アテネやスパルタなどのギリシア都市国家連合との間でペルシア戦争が勃発しました(アケメネス朝の負け)。
紀元前334年に始まったマケドニア王国のアレクサンドロス大王の東方遠征により、アケメネス朝ペルシアは滅亡しました(紀元前330年)。
ヘレニズム時代
マケドニア王国アレクサンドロス大王の東方遠征によりギリシアの文化が流入しました。その後アナトリアにはいくつものヘレニズム国家が勃興しました。
- マケドニア王国(アレクサンドロス大王の東方遠征)
- セレウコス朝シリア
- ヘレニズム国家勃興
アレクサンドロス大王の東方遠征(BC334年~BC323年)
古代ギリシア人の国である「マケドニア王国」のアレクサンドロス大王は、紀元前334年からアケメネス朝ペルシアの支配する広大なエリアへ大遠征をしました。紀元前330年にアケメネス朝のダレイオス3世を破り、エジプト、アナトリア、メソポタミア、中央アジア、インダス川流域まで支配する大帝国を築きました。


アレクサンドロス大王は紀元前323年に急死し大遠征は僅か10年程度で終わりましたが、ギリシア文化がペルシアに流入することになり、ヘレニズム文化(ギリシア文化+オリエント文化)が形成されるきっかけとなりました。
ヘレニズム国家勃興(BC3世紀~)
アレクサンドロス大王は後継者についての遺言が無く病死したため、東方遠征に従事した武将達によるディアドコイ戦争(後継者戦争)が始まりました。半世紀程の争いの末、マケドニア王国は「アンティゴノス朝マケドニア」、「プトレマイオス朝エジプト」、「セレウコス朝シリア」のヘレニズム3国に分立しました。アナトリアを支配したのはセレウコス朝シリアであり、その領土は中央アジアまで広がりました。

セレウコス朝シリアはその広大な支配地を維持することができず、東方にて「パルティア」(イラン系)、「バクトリア」(ギリシャ系)が自立しました。

また、アナトリア半島においても「アッタロス朝ペルガモン」、「ポントス王国」、「ガラティア王国」など数々のヘレニズム国家が自立し、セレウコス朝シリアの領土は次第に縮小し、衰退していきました。

アナトリアのヘレニズム国家として有力だったのはアッタロス朝ペルガモンでした。ペルガモン(現在のベルガマ)を首都とし、ヘレニズム文化が繁栄しました。現在もペルガモンの遺跡が残っています。世界遺産です。
ローマ・ビザンツ帝国時代
多くのヘレニズム国家はローマの属州となりました。その後ローマ帝国は東西に分裂したことで、最終的にアナトリアは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下となりました。
- 共和政ローマ/帝政ローマ
- 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)
共和政ローマ/帝政ローマ
多くのヘレニズム国家が勃興していたアナトリア半島でしたが、地中海方面から進出してきたローマに次々と服属していきました。共和政末期のローマの将軍ポンペイウスは、紀元前64年にセレウコス朝シリアを滅亡させ、3回にわたるミトリダテス戦争で紀元前63年にポントス王国を制圧し、アナトリアを支配下としました。
紀元前27年に帝政となったローマは領土を拡大し、五賢帝の1人トラヤヌス皇帝の時代には地中海全域を囲む最大領土となりました。以下は初期の共和政からの領土の変遷の地図です。

帝国ローマ後期の皇帝コンスタンティヌス1世は、313年ミラノ勅令によりキリスト教を公認し、325年にニケーア(現在のイズニク)公会議を開きました。キリスト教史上初の全世界的な公会議で、そこではキリスト教の教義が統一され、三位一体の基礎が確立しました。また、330年にギリシア人植民都市ビザンティオンの地に新都コンスタンティノープルを建設しました。

東ローマ帝国(ビザンツ帝国 BC395年〜1453年)
395年皇帝テオドシウス1世の死後ローマ帝国は東西に分裂し、アナトリアの地は「東ローマ帝国」が支配することになりました。首都コンスタンティノープルの旧名ビザンティオンから、東ローマ帝国は後世「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになりました。テオドシウス2世の時代にコンスタンティノープルにて「テオドシウスの城壁」が完成しました。オスマン帝国に攻め込まれるまで1000年近くコンスタンティノープルを守る鉄壁となりました。テオドシウスの城壁は今も残り、世界遺産となっています。

4世紀以降のゲルマン人大移動により、西ローマ帝国は476年に滅亡しました。西ヨーロッパ各地にはゲルマン人国家が乱立しましたが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はその影響は受けず、正当なローマ帝国継承国家として地中海世界の再統一を目指しました。以下はユスティニアヌス1世の時代の最大領土の地図です。


ユスティニアヌス1世は現在イスタンブールにある「ハギア・ソフィア」(アヤ・ソフィア)を建設しました。世界遺産です。
7世紀以降、西はゲルマン国家、東はササン朝ペルシアなどとの対立、さらに西アジアのアラブ人のイスラム教勢力の進出により、領土は縮小していきました。
726年にレオン3世が出した「聖像禁止令」によりローマ教会と対立し、ビザンツ帝国のキリスト教は「ギリシア正教会」と言われるようになりました(ローマ教会はカトリック)。コンスタンティノープルのハギア・ソフィア聖堂はギリシア正教の総主教座が置かれました。
アナトリアのトルコ化
トルコ系イスラム王朝セルジューク朝の侵入によりアナトリアはトルコ化しました。ビザンツ帝国はアナトリアの領土をほとんど失いました。その後アナトリアにはベイリクと呼ばれる多くの侯国(地方政権)が割拠しました。
- セルジューク朝
- ルーム・セルジューク朝/イル・ハン国
- ベイリクの台頭
セルジューク朝(1038年~)
1038年に中央アジアで成立したトルコ系イスラム王朝「セルジューク朝」は、11世紀になると大移動をはじめ、アナトリア半島に進出しました。1071年「マンジケルトの戦い」にてビザンツ帝国を破り、アナトリア半島のトルコ化・イスラム化が始まりました。ビザンツ帝国はアナトリアの領土をほとんど失うことになりました。

セルジューク朝の脅威からビザンツ帝国はローマカトリック教会へ救援要請をし、十字軍運動が展開していきました(1096年〜)。十字軍は全部で7回遠征がありました。キリスト教勢力は一時聖地イェルサレムを奪還するも、最終的に聖地回復は失敗に終わりました。特に第4回十字軍は同じキリスト教であるビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻め、ラテン帝国(1204年)を建国するという当初の目的から大きく逸脱したものでした。
ルーム・セルジューク朝(1077年~1308年)/イル・ハン国
セルジューク朝は1071年のマンジケルトの戦いの後、4つの地方政権に分裂し、1077年にそのうちの1つ「ルーム・セルジューク朝」がアナトリアを支配しました。ルーム・セルジューク朝の名前ですが、ルームはローマが訛ったもので、アナトリア半島がかつてローマの領土だったことに由来します。1096年から始まった十字軍運動を迎え撃ったのはルーム・セルジューク朝でした。

1243年にルーム・セルジューク朝はモンゴル軍の侵攻を受け、1278年イラン高原に建国されたモンゴル系王朝「イル・ハン国」の属国になりました。その後1308年に滅亡しました。
ベイリクの台頭(13世紀~)
13世紀以降ルーム・セルジューク朝が衰退していく中で、地方政権だったベイ(君侯)が公然と主権を主張するようになり、多くのベイリク(君侯国)が台頭しました。アナトリア半島は群雄割拠の時代となりました。カラマン侯国、メンテシェ侯国など10~20ほどのベイリクが登場しました。1299年に成立したオスマン侯国は周囲のベイリクを吸収し、後の巨大帝国「オスマン帝国」となります。

オスマン帝国時代
ベイリクの1つオスマン侯国が勢いをつけ、バルカン半島、中東、アフリカ北部をも支配する大帝国となりました。
オスマン侯国の成立(1299年~)
1299年に成立した「オスマン侯国」は周囲のベイリクを吸収し、ビザンツ帝国の領土へ進出しました。1326年にブルサ、1361年にエディルネ(アドリアノープル)を攻略、コソヴォの戦い(1389年)やニコポリスの戦い(1396年)でキリスト教勢力に勝利し、バルカン半島の大部分を支配領域としました。この頃のビザンツ帝国の領土はほぼ首都コンスタンティノープルのみになりました。

コンスタンティノープル陥落→ビザンツ帝国滅亡
海側の難攻不落の天然要塞と陸側の3重のテオドシウス城壁により、1000年近く外敵の侵入を防いできたビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルでしたが(1204年のラテン帝国建国時以外)、1453年ついにオスマン軍により陥落しました。陥落させたのは若干21歳の君主(スルタン)メフメト2世でした。
以下はコンスタンティノープル包囲戦の図です。陸と海どちらからの侵入も難しいコンスタンティノープルでしたが、メフメト2世は油を塗った丸太を敷いて、70隻もの船を一晩で山越えさせて金角湾へ移動させるという奇策に出ました。オスマン側は制海権を手にして、救援物資の経路を断ちました。これによりビザンツ側は混乱し、最終的にオスマン軍の総攻撃によりテオドシウスの城壁は突破され、コンスタンティノープルは陥落しました(城壁の鍵の締め忘れにより侵入を許したという説あり)。ビザンツ帝国の滅亡です。


コンスタンティノープルは、新たにオスマン帝国の首都イスタンブールとなりました。ハギア・ソフィアをはじめとした教会や修道院はモスクに転用され、スルタンの居城「トプカプ宮殿」が建てられました。トプカプ宮殿は現在も見学することができます。世界遺産にもなっています。
オスマン帝国へ
オスマン侯国はその後領土を拡大していき、他民族国家「オスマン帝国」となりました(スルタンはトルコ人)。16世紀のスレイマン1世の時代に全盛期迎えました。下記の地図はオスマン帝国の領土の変遷です。17世紀のメフメト4世時代に領土は最大となりました。


スレイマン1世時代に建設された「スレイマニエモスク」です。オスマン帝国を代表する巨大イスラム建築で、宮廷建築家のミマール・シナンが設計しました。世界遺産となってます。
17世紀以降スルタンの権威は徐々に衰退し、ロシアやオーストリアからの侵攻、支配下の民族の自立などにより領土は縮小していきました。
1914年第一次世界大戦での敗北により領土を大幅に削減され国家消滅の危機となりました。最終的にケマル・パシャ率いるアンカラ政府によりスルタン制が廃止され、1922年に滅亡しました。
トルコ共和国の成立
1923年新たにトルコ民族の国家「トルコ共和国」が建国されました。共和制が導入され、初代大統領にはケマル・パシャが就任しました。

トルコ共和国はオスマン帝国とは違い、政教分離、憲法制定、主権在民など近代国家として自立していきました。またトルコ民族であることの一体感を重要視したことで、国内のクルド人の反発を招き、40年間以上にわたりクルド人武装組織PKKとトルコ軍の衝突が続きました。2025年にPKKは武装解除と撤退を表明しましたが、構造的な対立は残っています。
トルコの世界遺産
以下がトルコの世界遺産となります(Wikipediaがあるものはリンクしています)。
文化遺産
- イスタンブール歴史地域(1985年)
- ディヴリーイの大モスクと病院(1985年)
- ハットゥシャ(1986年)
- ネムルト・ダウ(1987年)
- クサントス–レトーン(1988年)
- サフランボル市街(1994年)
- トロイの考古遺跡(1998年)
- セリミエ・モスクとその社会的複合施設群(2011年)
- チャタル・ヒュユクの新石器時代遺跡(2012年)
- オスマン帝国発祥の地ブルサとジュマルクズク(2014年)
- ペルガモンとその重層的な文化的景観(2014年)
- エフェソス(2015年)
- ディヤルバクル城塞とヘヴセル庭園の文化的景観(2015年)
- アニの考古遺跡(2016年)
- アフロディシアス(2017年)
- ギョベクリ・テペ(2018年)
- アルスランテペの遺丘(2021年)
- ゴルディオン(2023年)
- 中世アナトリアの木造多柱式モスク群(2023年)
- サルディスとビン・テペのリュディア墳丘墓(2025年)
複合遺産
- ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群(1985年)
- ヒエラポリス-パムッカレ(1988年)


















