オスマン帝国の初代〜11代スルタン(君主)の解説記事です。
オスマン帝国は建国から滅亡までオスマン家の全36人がスルタンに即位しており、一度も断絶することなく何と600年も続きました(1299〜1922年)。これは世界史の中でもかなり珍しい国家と言えます。
オスマン帝国の歴史を以下のように3つの時代に分け、全3記事構成で解説します。オスマン帝国の各スルタンはどんな人物で歴史上どんな功績を残したのか、ざっくり分かりやすく紹介していきます。
- 前期:初代〜11代スルタン 建国→全盛期
- 中期:12代〜29代スルタン 権威の衰退→領土喪失
- 後期:30代〜36代スルタン 近代化→滅亡
この記事は、前期:初代〜11代スルタンまでの内容です。建国→全盛期の歴史を紐解いていきます。
オスマン帝国の特徴
まず、オスマン帝国はその長い歴史を通して大きな特徴を持っているのでいくつか紹介します。
多民族国家である
オスマン帝国は建国当初はアナトリア半島の辺境の地を治めるベイリク(君侯国)に過ぎませんでしたが、多くの征服活動を繰り返し、最終的に東西を跨ぐ大帝国に成長しました。支配層はトルコ人であるオスマン家ですが、支配エリアにはアラブ人、エジプト人、ギリシア人、スラヴ人、ユダヤ人などが存在する多民族国家でした。

オスマン帝国は日本では以前オスマン=トルコと呼ばれていましたが、トルコ人のみで構成されていた訳ではないので、現在ではオスマン帝国またはオスマン朝と呼ばれるのが一般的になっています。
また、オスマン帝国の公文書では自国のことは「至高の国家」と書かれており、1876年の憲法制定の際にようやく「オスマン国」と表記されました。
イスラム教とミッレト制
オスマン帝国は周辺のイスラム教国と同じく、イスラム教を国教とし、政治体制は「イスラム法」(シャリーア)に則って運営されました。イスラム法とは、コーラン(聖典)とハディース(預言者ムハンマドの言行録)に基づいており、国家行政以外にもムスリムの信仰内容や社会的規範などが示された法体系です。イスラム法を解釈するために、知識人であるイスラム法学者(ウラマー)が重要な役割を果たしました。
オスマン帝国はイスラム教国家ではありましたが、征服地の民族に対してイスラム教への改宗を強制はしませんでした。ムスリム(イスラム教徒)以外の異教徒をギリシア正教、アルメニア教会、ユダヤ教の3つに分け、納税を義務づけるかわりに、信仰の自由と一定の自治を認めました(ミッレト制)。これは7代スルタンのメフメト2世時代に確立したと言われています。オスマン帝国が長く続いたのもこのような柔らかい体制だったからと言えます(世界史を見てると民衆を抑圧する独裁体制の国はすぐ滅んでます)。
オスマン帝国の戦力
オスマン帝国では、トルコ人騎兵「シパーヒー」と歩兵軍団「イェニチェリ」が軍事力を支えていました。
シパーヒーはスルタンからティマールという封土を与えられ、その土地の徴税権を持つことができるかわりに、戦時にはスルタンの元へかけつました(ティマール制度)。イェニチェリは征服地のキリスト教徒から徴兵されたスルタン直属の歩兵軍団で、14世紀のムラト1世時代に創設されました。キリスト教徒の少年を強制的に徴兵し、改宗・訓練することで定期的な人材登用が行われました(デヴシルメ制度)。
時代が経ち、戦術が騎兵から鉄砲に移行するに伴いイェニチェリはオスマン軍事力の中心となっていきました。
身内の粛清・幽閉
オスマン帝国の慣習1つで、兄弟を粛清して(殺害して)スルタンに即位するというものです。目的は皇位継承争いをなくし、帝国を分裂から守るためでした。非人道的ですが、内乱を防ぐための手段として機能していました。
この慣習は4代目スルタンのバヤズィト1世が即位後に自分の兄弟を殺害したことから始まったと言われています。7代目スルタンのメフメト2世時代に明文化され、その後14代目スルタンのアフメト1世が廃止するまで続きました。
廃止後は、殺害ではく宮殿の一室に幽閉するという形が取られるようになりました。
ハレムの女性達
オスマン帝国の「ハレム」は、トプカプ宮殿内において、スルタンの母后や妃、大勢の女官や奴隷が暮らした男子禁制エリアのことです(スルタンと宦官のみ出入りできる)。日本で言えば、江戸時代の「大奥」にあたる場所です。ハレムはトルコ語ですが、「禁じられた場所」の意味を持つアラビア語のハリーム、ハラームから来ています。
イスラム教の戒律により女性をハレムに隔離する風習は10~11世紀頃から各イスラム王朝にて一般化し、中でもオスマン帝国のハレムが歴史的に最も有名です。トプカプ宮殿のハレムは、征服地から数多くの女性奴隷が集められ、最盛期には1000人を超える大規模なものでした。
ハレムは女性らの生活の場であると同時に、階級闘争(スルタンに寵愛されれば高い地位を得られる)の場でもありました。16世紀以降は、権力闘争にハレムの女性らが関与したりなど政治色も強くなっていきました。スルタンの権威が衰退していくと特に母后(ヴァーリデ・スルタン)が絶大な権力を持つようになりました。
オスマン家系図(初代〜11代)
初代〜11代までのスルタンの時代(1299〜1574年)は、オスマン帝国の建国→全盛期にあたります。以下は11代目までの家系図です。この時代での特に重要な人物は、7代メフメト2世と10代スレイマン1世あたりかなと思います。

建国→全盛期の歴史の大まかな流れ
初代〜11代スルタンの大まかな歴史の流れを解説します。
この時代は積極的な領土拡張の時代で、向かうところほぼ敵なしという状態でヨーロッパのキリスト教諸国を震撼させました。有能なスルタンばかり登場します。
オスマン帝国は、1299年ルーム・セルジューク朝の衰退期にてアナトリア半島のベイリク(君侯国)の1つとして誕生しました。
建国以降アナトリア半島やバルカン半島にて征服活動を続け、破竹の勢いで領土を拡大していきました。途中10年ほどの空位時代と内乱がありましたが、それらを乗り越え、7代目スルタンのメフメト2世の時代にはコンスタンティノープルを陥落させビザンツ帝国を滅ぼしました。
コンスタンティノープルを新たな首都イスタンブールとし、最終的にバルカン半島、アフリカ北部、中東までも支配する大帝国となりました。10代目スルタンのスレイマン1世の時代には中央集権体制が整備され全盛期を迎えました。
①オスマン1世:建国へ
オスマン帝国初代君主のオスマン1世です。

(在位1299〜1326)
オスマン1世は資料が少なく、不明な点が多い人物です。13世紀の半ばに生まれたとされています。オスマン1世の父はエルトゥールルという名前で、日本でも有名なエルトゥールル号遭難事件の船名にもなっています。
1299年オスマン侯国(後のオスマン帝国)を建国しました。当時アナトリアを支配していたルーム・セルジューク朝の衰退期に各地で勃興したベイリク(君侯国)の1つで、ジハード(聖戦)の名の下、領土を拡大していきました(実質は略奪行為)。オスマン1世の下には、遊牧民や農民をはじめ、トルコ系戦士や宗教指導者、東ローマ帝国の援助が途絶えたキリスト教徒などもいました。
また、オスマン1世は「スーフィズム」(イスラム神秘主義)を取り入れてイスラム教の拡大を図りました。スーフィズムとは8世紀頃からはじまり、踊りや神への賛美を唱えることでアッラーとの一体感を求める信仰形態です。感覚的で分かりやすいその教えはイスラム教を爆発的に広めることに繋がりました。
ビザンツ帝国領のブルサ包囲中の1326年に死去しました。
②オルハン:ブルサ征服
2代目君主オルハンです。

(在位1326〜62年)
外交・戦争
■ブルサ攻略→最初の首都となる(1326)
■ニケーア(現イズニク)攻略(1331)
■ニコメディア(現イズミット)攻略(1337)
■バルカン半島進出:ビザンツのヨハネス6世を皇帝にすることに協力
国内
■チャンダルル家(ルームセルジューク時代の名家)を宰相にする→イスラム法を取り入れる
父オスマン1世が死去した1326年にビザンツ領「ブルサ」を陥落させ、オスマン帝国最初の首都としました。その後ニケーアやニコメディアを占領しました。また、ビザンツ帝国の皇位継承争いに介入し、ヨハネス6世(オルハンの妻はヨハネス6世の娘)を援助することでバルカン半島への進出の足掛かりを作りました。

Wikipediaより
オルハンは統治体制の確立のためにイスラム法を導入し、皇帝を補佐する役職である宰相を設置しました。宰相には、ルーム・セルジューク時代の名家でありイスラム法学者(ウラマー)であった「チャンダルル家」が迎えられました。後に宰相は複数人で構成され、その中でも特に権限が強い大宰相も登場しました。
③ムラト1世:バルカン半島で大暴れ
3代目君主のムラト1世です。

(在位1362~89年)
外交・戦争
■アナトリア半島攻略:政略結婚で多くの侯国を抑える
■アドリアノープル攻略(1361)→エディルネに改称、新都とする(1366)
■コソヴォの戦い(1389):VSキリスト教国連合軍(セルビア、ボスニア、ブルガリア、ハンガリーなど)→勝ち→バルカン半島にて勢力拡大
国内
■イェニチェリの創設
ムラト1世はオスマン帝国の歴代君主の中で、初めて「スルタン」の称号を用いた人物と言われています。スルタンとはイスラム世界おける君主や支配者を指す称号です。
ムラト1世は父オルハンの意思を引き継ぎ、バルカン半島の進出を目指しました。1361年にビザンツ領アドリアノープルを攻略しました。「エディルネ」と改称し、新たな首都としました。1389年の「コソヴォの戦い」では、キリスト教連合軍(セルビア、ボスニア、ブルガリア、ハンガリーなど)を圧倒的な戦力で破り、バルカン半島での支配を揺るぎないものにしました。アナトリア半島では政略結婚などにより周辺のベイリク(君侯国)を攻略していきました。

Wikipediaより
破竹の勢いのムラト1世でしたが、コソヴォの戦いで捕虜となったセルビアの貴族により刺殺されてしまいました。
また、ムラト1世は歩兵軍団である「イェニチェリ」を創設しました。イェニチェリはバルカン半島の征服地に住むキリスト教徒で構成されました。キリスト教徒の少年を強制的に徴兵し、イスラム教に改宗させて訓練するという「デヴシルメ制度」が後に採用され、定期的な人材登用が行われるようになりました。イェニチェリは、これまでのトルコ人騎兵「シパーヒー」に頼らないスルタン直属の軍事組織として位置付けられ、オスマン帝国の歴史を動かしていきます。
④バヤズィト1世:軍事の天才敗れる→空位時代へ
4代目スルタンのバヤズィト1世です。

(在位1389~1402年)
外交・戦争
■アナトリアの大部分を制圧
■コンスタンティノープル包囲→最終的に失敗
■ニコポリスの戦い(1396):VSハンガリー王ジギスムントら十字軍→勝ち→正式にスルタンの称号取得
■アンカラの戦い(1402):VSティムール朝→負け→バヤズィトは捕虜・死去→空位時代へ
バヤズィト1世は、軍事の天才で積極的な遠征活動をしたことから「稲妻王」の異名を持ちます。彼は即位後、他の兄弟を粛清しスルタンの地位を確固たるものにしました。これ以降「オスマン帝国の兄弟殺し」が定着していきました。
バヤズィト1世は先代ムラト1世の征服事業をそのまま引き継ぎ、バルカン半島の侵略活動を進めました。1396年の「ニコポリスの戦い」では、ハンガリー王ジギスムント率いるキリスト教十字軍に大勝し、ギリシャ方面へと進出しました。エジプトのカイロにいたアッバース家のカリフ(イスラム教の最高権威者)はニコポリスの戦いの勝利を称賛し、バヤズィト1世にスルタンの称号を授けました。これ以降オスマン歴代君主は正式にスルタンを名乗りました。また、バヤズィト1世はアナトリア半島でも着実に征服活動を続け、アナトリアの大部分を制圧しました。
しかし、突如として東から現れたティムール朝によりオスマン帝国は窮地にさらされました。1402年の「アンカラの戦い」にてバヤズィト1世はティムール軍に敗れ、捕虜となりそのまま死去しました。戦後バヤズィト1世が支配したベイリクが復活し、アナトリアの領土の大部分が失われました。スルタン不在の空位時代となり、バヤズィト1世の4人の息子による帝位を巡る内戦が勃発しました。オスマン帝国の危機の時代です。

「一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書」より
⑤メフメト1世/⑥ムラト2世:再興へ
5代目スルタンのメフメト1世と6代目スルタンのムラト2世です。
10年間のスルタン空位時代の後、帝位継承争いを勝ち抜いたメフメト1世が5代目スルタンに即位しました。メフメト1世はアンカラの戦いの後に失ったアナトリアの領土を回復をしました。
6代目スルタンとなったムラト2世はバルカン半島にてキリスト教軍を破り、ビザンツ帝国首都コンスタンティノープルの包囲戦もしました(こちらは失敗)。
一時は滅亡の危機にあったオスマン帝国でしたが、2人のスルタンの時代に見事に再興しました。
⑦メフメト2世:ビザンツ帝国を滅亡させた征服王
7代目スルタンのメフメト2世です。

(在位1444~46年/1451~81年)
外交・戦争
■コンスタンティノープル征服(1453):VSビザンツ帝国(コンスタンティノス11世)→ビザンツ帝国滅亡→首都イスタンブールとする
■バルカン半島のほぼ全域征服(属国化)
■クリム・ハン国服属化→黒海を手に入れる
■アナトリア東部の平定
国内
■ミッレト制の確立:税金負担と引き換えに非ムスリムの信仰・自治を認める
■トプカプ宮殿建設(1460年代~78)
■兄弟殺しの慣行(皇位争いを防ぐため)が法令化
メフメト2世は征服活動を積極的に行い、帝国としての支配を確立しました。彼は「征服王」と呼ばれ、世界史的にも有名な人物です。
メフメト2世は2回スルタンに即位しています。1度目はわずか12歳で即位しましたがイェニチェリの反乱を抑えることができず、父ムラト2世に帝位を返上しました。その後19歳の時に2度目の即位をしました。内紛を抑えるため自分の兄弟を殺害し、この時代に兄弟粛清の慣行は法令化しました。
メフメト2世の治世で最も大きな出来事は1453年の「コンスタンティノープル陥落」です。
ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルはテオドシウス城壁という3重の壁と海側の天然の要塞のため侵入が難しく、歴代スルタンは誰も攻略できませんでした。そこでメフメト2世は油を塗った丸太を敷いて、70隻もの船を一晩で山越えさせて金角湾へ移動させるという奇策に出ました。これによりビザンツ側は混乱し、最終的にオスマン軍の総攻撃によりテオドシウスの城壁は突破され、コンスタンティノープルは陥落しました(城壁の鍵の締め忘れにより侵入を許したという説あり)。若干21歳のスルタンにより1000年の歴史を持つビザンツ帝国は滅亡しました。

Wikipediaより
ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは新たにオスマン帝国の首都「イスタンブール」となりました。メフメト2世は1460年代からスルタンの居城である「トプカプ宮殿」の建設に着手しました。
ビザンツ帝国滅亡後メフメト2世はバルカン半島内陸方面へ進出し、ギリシア、アルバニア、ルーマニアなどを征服しました。3代目スルタンのムラト1世時代から本格的にバルカン半島の進出が始まりましたが、メフメト2世の時代でバルカン半島のほぼ全土を支配したことになります。また、メフメト2世はクリミア半島の「クリム・ハン国」を服属させ黒海を手に入れ、さらにアナトリア東部の「カラマン侯国」の併合、西アジアで勢いがあった「白羊朝」を破るなど、オスマン帝国を東西世界にまたがる広大な地域を支配する国家へ成長させました。

Wikipediaより
戦争以外に関しては、メフメト2世の時代に「ミッレト制度」が確立したと言われています。ムスリム以外の異教徒(ギリシア正教、アルメニア教会、ユダヤ教)に納税を義務づけ、その代わりに信仰の自由と一定の自治が認めました。オスマン帝国はイスラム教国家ですが、ムスリムと異教徒が共存できる社会でした。
⑧バヤズィト2世:中央集権体制の強化へ
8代目スルタンのバヤズィト2世です。

(在位1481~1512年)
バヤズィト2世は先代メフメト2世とは違い、遠征はほぼしませんでした。法典の整備や文化政策など、国内の中央集権体制が少しずつ整備された時代でした。
バヤズィト2世の治世の歴史的な事件としては、1501年イランに「サファヴィー朝」が成立したことです。サファヴィー朝はイスラム教シーア派の国で(オスマンはスンナ派)、オスマン帝国と長期間に渡り対立しました。
⑨セリム1世:冷酷王 南へ領土拡大
9代目スルタンのセリム1世です。

(在位1512~20年)
外交・戦争
■チャルディランの戦い(1514):VSサファヴィー朝(イスマーイール1世)→勝ち→イラン高原へ押し返す
■マルジュ・ダービクの戦い(1516):VSマムルーク朝→勝ち→エジプト、シリア、パレスティナ征服(イスラム聖地のメッカとメディナを獲得)
セリム1世は父のバヤズィト2世を退位させて(おそらく暗殺)、スルタンの地位につきました。その後兄弟粛清はもちろん、反対する者は容赦なく処刑したため、「冷酷王」と呼ばれています。
残忍な性格の持ち主と思われますが、在位たった8年で積み上げた功績は征服王メフメト2世にも負けていませんでした。1514年に「チャルディランの戦い」でイスマーイール1世率いるサファヴィー朝と対決しました。サファヴィー朝の主戦力は騎馬兵、オスマン帝国は大砲と鉄砲を持つイェニチェリでした。結果はオスマン帝国の勝ちで、サファヴィー朝をイラン高原へ押し返しました。この戦争の意義は大砲と鉄砲が騎馬兵を蹴散らしたことであり、日本の「長篠の戦い」に例えられることもあります。
また、セリム1世は南のエジプト・アラビア半島方面へも進出しました。1515年「マルジュ・ダービクの戦い」にて、当時イスラムの強国でエジプト、シリア、パレスチナ辺りを支配していた「マムルーク朝」を滅ぼし、その領土を征服しました。イスラムの聖地メッカ・メディナも獲得しました。

Wikipediaより
マルジュ・ダービクの戦いの後、マムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝のカリフ(イスラム教の最高権威者)からカリフの称号を譲り受け、オスマン帝国のスルタン(君主)がカリフも兼ねるという「スルタン=カリフ制」が始まったとされていますが、どうやらでっち上げで19世紀の帝国衰退期にスルタンの権威を強調するために言われるようになったとのことです(スルタン=カリフ制は1876年制定の憲法で明文化された)。
⑩スレイマン1世:壮麗帝 オスマン全盛期へ
10代目スルタンのスレイマン1世です。

(在位1520~66年)
外交・戦争
■ベオグラード(セルビアのキリスト教圏要衝)攻略(1521)→ハンガリー攻略の足がかり
■ロドス島(聖ヨハネ十字軍の本拠地)を陥落(1523)
■フランスとの同盟(1526):フランソワ1世と結ぶ→帝国内で通商権認める(カピチュレーション)
■モハーチの戦い(1526):VSキリスト教国連合軍→勝ち→ハンガリー支配→ハプスブルク家との対立へ
■第一次ウィーン包囲(1529):VSオーストリア・ハプスブルク家→引き分け→ハンガリー北はハプスブルク家、南はオスマン直轄領となる
■バグダード遠征(1534):VSサファヴィー朝→勝ち
■プレヴェザの海戦(1538):VSスペイン(カルロス1世)/ローマ教皇/ヴェネツィア連合→勝ち→地中海の覇権獲得
■イエメン征服(1538)
国内
■法律の整備
■スレイマニエ・モスク建設(1550〜1557)
スレイマン1世は「壮麗帝」と呼ばれ、この時代がオスマン帝国の全盛期と言われています。戦争によりさらに領土拡張が行われ、国内の中央集権体制も整備されました。
スレイマン1世の治世で特徴的なものを挙げると、ハンガリーへの侵攻があります。まず1521年にセルビアのキリスト教要衝地ベオグラードを攻略し、ハンガリー侵攻への足がかりとしました。1526年の「モハーチの戦い」でキリスト教国連合軍を破りハンガリーの大部分を征服・間接支配、1529年ハプスブルク家の本拠地「ウィーン包囲」でキリスト教世界に大きな衝撃を与えました。ウィーンを包囲したスレイマン1世でしたが、冬の時期の前に撤退したことでハプスブルク家は危機を回避できました。その後オスマン帝国とハプスブルク家は何度か争い、休戦協定にて最終的にハンガリー北はハプスブルク領、南はオスマン直轄領となりました。
スレイマン1世の他の征服活動としては1523年聖ヨハネ十字軍の本拠地ロドス島を攻略、1534年バグダード遠征にてサファヴィー朝を駆逐、1538年「プレヴェザの海戦」にてスペイン、ローマ教皇、ヴェネツィア連合軍を破り地中海の覇権獲得(リビア、アルジェリアなど支配)、イエメン征服などがありました。
外交政策としては、1526年にハプスブルクと対立していたフランスのブルボン朝フランソワ1世と同盟を組み、帝国内での通商特権(カピチュレーション)を与えました。

世界の歴史まっぷより
また、国内においてはこれまでのイスラム法とは別に「カーヌーン」と呼ばれる税制や行政や刑法などの基本法の集大成を行い、スルタンを中心とした中央集権体制を整備しました。そのためスレイマン1世は「立法者」とも呼ばれています。文化政策としては、オスマン建築の傑作「スレイマニエ・モスク」を建造しました(1550〜1557年)。設計したのは宮廷建築家ミマール・シナンで、彼はオスマン帝国の多くのイスラム建築に携わりました。
スレイマン1世の死後は、正妻のロクセラーナ(ヒュッレム)が後継者争いに介入するなど、ハレムの女性がオスマン帝国の政治を支配する先例となりました。
⑪セリム2世:酔漢王 帝国衰退の兆候?
11代目スルタンのセリム2世です。

(在位1566~74年)
外交・戦争
■レパントの海戦(1571):VSスペイン(フェリペ2世)/ローマ教皇/ヴェネツィア→負け
■チュニスの攻略(1574)
国内
■官僚に権限委ねる→大宰相ソコルル・メフメト・パシャが活躍
■セリミエ・モスク建設(1568~74)
セリム2世はスレイマン1世の正妻ロクセラーナが母親であり、彼女の画策によりスルタンに即位しました。セリム2世はこれまでのスルタンと違い政治にあまり関心がなく、スルタンの権限を官僚に委ねました。公務を放ったらかして酒ばかり飲んでいたため、「泥酔王」「酔漢王」などと呼ばれています。肖像画が「酒を一杯やりたい」という姿にどうしても見えてしまいます(笑)。
セリム2世はスルタンの権威の衰退させた人物と評価される一方で、大宰相を中心とした体制を機能させた有能な人物としても評されています。スレイマン1世時代からの有能な大宰相ソコルル・メフメト・パシャがセリム2世を支えました。実質的な最高権力者でした。
セリム2世時代の重要な出来事としては、まず1571年の「レパントの海戦」です。同年のキプロス島の征服がきっかけで起きた戦争で、フェリペ2世率いるスペイン、ローマ教皇、ヴェネツィアの連合軍と争いました。結果はオスマン帝国の負けでした。建国以来数少ない負け戦でしたが、キプロス島もそのまま維持し、オスマン側の被害は僅かだったと言われています。1574年にはアフリカ方面へ侵攻し、スペイン支配下にあったチュニジアを制圧しました。
また、セリム2世はエディルネに「セリミエ・モスク」(1568〜74年)を建造しました。設計は宮廷建築家ミマール・シナンであり、彼自身の最高傑作と言われています。
セリム2世は、ワインを飲み干した後に浴室で滑って頭を打って亡くなりました。なんとも残念な最期でした。







