ウズベキスタン

ウズベキスタンの歴史と世界遺産

ウズベキスタンのざっくりした歴史と世界遺産の紹介です。

中央アジアには旧ソ連を構成していた「〜スタン」と呼ばれる国々が沢山あります。そのうちの1つウズベキスタンは、中央アジアで最大の人口の国です。

ウズベキスタン

中央アジアは、中国と地中海を結んだ古代の交易路シルクロードが通っていたため、多くの街がオアシス都市として栄えました。ウズベキスタンのサマルカンドやブハラなどはオアシス都市として非常に長い歴史を持ちます。

また、8世紀頃からイスラム教が流入し、現在もイスラム教国家であるため、見応えあるイスラム建築を各地で見ることができます。

中央アジアは文化が交差する地域にあるため、前近代まではウズベキスタンという単一の国家は存在せず、イラン系やトルコ系など様々な民族がかわるがわる支配し続けた歴史があります。

ウズベキスタン史年表

ウズベキスタンの歴史は大きく分けて、イスラム以前、イスラム化以降、旧ソ連時代、現在に分けられます。イスラム化以前と以降で、中央アジア中心にざっくり作ってみました。

イスラム化以前

ウズベキスタン歴史年表

イスラム化以降・ソ連時代

ウズベキスタン歴史年表

ペルシア帝国の支配

ウズベキスタンを含む現在の中央アジアにあたる場所「西トルキスタン」は、古くは「ソグディナア」と呼ばれており、オアシス都市サマルカンドを中心に、イラン系のソグド人が紀元前より東西交易の担い手として活躍していました。

前6世紀頃、古代オリエントを統一した大国「アケメネス朝ペルシア」により中央アジアは支配されましたが、ソグド人は支配されつつも独自の文化を維持し、交易に従事しました(その後の支配国でも同様の動き)。

前550年
「アケメネス朝ペルシア」(イラン系ペルシア人)の支配。小アジア(トルコ辺り)からインダス川流域までを支配した古代オリエントの大国。
アケメネス朝ペルシア
前5世紀頃
ダレイオス1世の時に全盛期。ゾロアスター教の保護や駅伝制の整備。数度のギリシャ遠征は失敗。

ヘレニズム時代

ギリシャの北の小国「マケドニア王国」がギリシャを統一し、アレクサンドロス大王の東方遠征により、中央アジアはマケドニア王国の支配下となりました。

各地にギリシャ文化が伝播し、ペルシア人の文化と融合して、ヘレニズム文化が生まれました。

前330年
ギリシャ北方の小国「マケドニア王国」がギリシャ一帯を制圧。
その後アレクサンドロス大王の東方遠征。バルカン半島から中央アジア、インダス川までの大帝国が成立。
アレクサンドロス大王の東方遠征
前4〜3世紀頃
アレクサンドロス大王の死後、マケドニア王国は分裂。「アンティゴノス朝マケドニア」「プトレマイオス朝エジプト」「セレウコス朝シリア」に分裂。
中央アジアを支配したのはセレウコス朝シリア。
マケドニア王国の分裂
前255年
セレウコス朝シリアから「バクトリア王国」(ギリシャ人)、「パルティア王国」(イラン系)独立。
中央アジアを支配したバクトリア王国はインドまで勢力を伸ばし、ギリシャ文化がインドに流入。ガンダーラ美術が生まれる要因となる。
バクトリア王国

遊牧民の支配

バクトリア時代の後の中央アジアは、「大夏(トハラ)」「大月氏」と遊牧民族の支配が続きました。

1世紀頃にはイラン系の「クシャーナ朝」がインドに跨る地域を支配し、ガンダラーラ美術が栄えました。初めて仏像が作られたのもこの時代です。ウズベキスタンのテルメズに残る仏教遺跡はクシャーナ朝時代のものです。

クシャーナ朝以降は、「エフタル」「突厥」と遊牧民族の支配が続き、7世紀には中国の大国「唐」が統治しました。

前139年
「大夏(トハラ)」(スキタイ系遊牧民)によりバクトリア王国滅亡。
前140年
「大月氏」(イラン系遊牧民族)が中国北方の遊牧民族「匈奴」に敗れ西方へ大移動。トハラの地を征服。
1世紀頃
大月氏の支配を脱したイラン系のクシャーナ族により「クシャーナ朝」が成立。西北インドに跨る地域を支配。
ヘレニズム文化とインド文化が融合したガンダーラ美術が開花し、初めて仏像が作られる。
クシャーナ朝
4世紀後半
「エフタル」(民族系統不明)がクシャーナ朝に代わり支配。
6世紀
「突厥」(トルコ系遊牧民族)が「ササン朝ペルシア」と結んでエフタルを滅ぼす。中央アジアを広い範囲に渡り支配。
6世紀後半に東西に分裂。
突厥
7世紀中頃
中国王朝「唐」により突厥は滅亡。中央アジア一体を直接統治。
同時代にイスラム王朝「ウマイヤ朝」が成立し、勢力を伸ばし始める。
唐

イスラム化のはじまり

唐が中央アジアを支配していた時代、610年にアラビア半島でイスラム教が生まれました。各地へ急速に広まり、正統カリフ時代を経て、661年にイスラム教最初のカリフ(イスラム教の最高指導者)世襲制の国家である「ウマイヤ朝」が成立しました。中央アジアからイベリア半島まで支配する巨大国家となりました。

750年には「アッバース朝」が成立しました。タラス河畔の戦いにて中国の唐を破り中央アジアのイスラム化が進みました。

その後、サーマーン朝、カラ・ハン朝、セルジューク朝、西遼、ホラズム・シャー朝と多くのイスラム政権が中央アジアに成立しました。

661~750年 ウマイヤ朝
「ウマイヤ朝」成立。最終的には中央アジアからイベリア半島まで勢力を伸ばす。
ウマイヤ朝
750~1258年 アッバース朝
「アッバース朝」成立。ウマイヤ朝を打倒し、中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)にて中央アジアの覇権を巡って唐と対立(751年のタラス河畔の戦い)。
唐に勝利し、中央アジアのイスラムの支配が決定的となる。
この戦いにて、唐軍の捕虜によって製紙法がイスラム世界に伝えられた。
アッバース朝
875~999年 サーマーン朝
アッバース朝を宗主国として「サーマーン朝」が成立し、中央アジアを支配。初のイラン系のイスラム王朝。
首都:ブハラ。
840~1212年 カラ・ハン朝
トルコ系のカルクク人がウイグルに押されて、中央アジアに侵入。「カラ・ハン朝」建国。10世紀にサーマーン朝を滅ぼし、イスラム教を受容。
中央アジアのトルコ化のきっかけになる。
サーマーン朝 カラ・ハン朝
1038~1157年 セルジューク朝
アフガニスタンのガズナ朝に服していた「セルジューク朝」(トルコ系)が独立。ビザンツ帝国領である小アジアまで領土を拡大し(1071年)、十字軍遠征のきっかけとなる。
カラ・ハン朝を打倒し、中央アジア一帯を支配する巨大国家となるも、後に小国に分裂。
セルジューク朝
1077~1231年 ホラズム・シャー朝
セルジューク朝の地方政権「ホラズム・シャー朝」(トルコ系)が独立。
都:ウルゲンチ、サマルカンドなど。
1133~1211年 西遼
モンゴル族の1つである契丹族が中国王朝「金」に圧迫され、中央アジアへ侵入し、「西遼(カラ・キタイ)」が成立。
カラ・ハン朝を吸収し、セルジューク朝を破り、支配領域を拡大する。
ホラズム・シャー朝に敗れ、東方へ移動。ホラズム・シャー朝が中央アジアの覇権を握る(1209年)。
ホラズム・シャー朝 西遼

モンゴル来襲

1220年チンギス・ハン率いるモンゴル軍が中央アジアに侵攻し、サマルカンドやブハラといった都市が破壊されました。

チンギス・ハンの子孫達により中国王朝「元」をはじめ、イスラム王朝「チャガタイ・ハン国」「イル・ハン国」「キプチャク・ハン国」が成立しました。ウズベキスタンを含む中央アジアはチャガタイ・ハン国が支配しました。

チンギス・ハン家系図
1220年
チンギス・ハン率いるモンゴル軍が中央アジアに侵攻。サマルカンドやブハラといった都市が壊滅し、ホラズム・シャー朝が滅亡。
1225年
チンギス・ハンの息子であるチャガタイにより、中央アジアに「チャガタイ・ハン国」が成立。
チャガタイ・ハン国

ティムール朝の成立

1340年頃チャガタイ・ハン国は東西分裂しましたが、西チャガタイ出身のモンゴル系貴族の後裔ティムールにより、1370年にティムール朝が建国されました。首都はサマルカンドです。

ティムールはチンギス・ハンと同祖のモンゴル人であると称していますが、厳密にはトルコ化したモンゴル人です。

中央アジアからイランまでを支配する一大国家であり、現在サマルカンドにあるイスラム建築の多くはこの時代に造られました。

ティムール朝
1380年
イル・ハン国を吸収。キプチャク・ハン国の首都サライを略奪。
1398年
インドのトゥグルク朝の都デリーを略奪。
1402年 
アンカラの戦い。オスマン帝国を滅ぼす(後に復活)。
1405年
中国王朝「明」へ遠征中にティムール死去。
1409年
3代皇帝シャー・ルフ即位。ヘラートへ遷都。
1447年
4代皇帝ウルグ・ベク即位。トルコ・イスラム文化開花。
1470年以降
サマルカンド政権とヘラート政権に分裂し、衰退。

3ハン国の成立

16世紀になるとモンゴル系であるウズベク人が中央アジアへ侵入しました。指導者シャイバニ・ハンにより、ティムール朝は滅亡し、新たに「ブハラ・ハン国」が成立しました。

その後ブハラ・ハン国より、「ヒヴァ・ハン国」「コーカンド・ハン国」が分裂し、3ハン国時代を迎えました。ウズベクスタンの史跡はこの時代のものも多いです。

ブハラ・ハン国 ヒヴァ・ハン国 コーカンド・ハン国
1500年
ウズベク人(トルコ系)の指導者シャイバニ・ハンがティムール朝サマルカンド政権を滅ぼし、「シャイバニ朝」を建国(後にブハラを首都とするので「ブハラ・ハン国」と呼ばれる)。
1507年
ティムール朝ヘラート政権を滅ぼす。
1510年
イランの「サファヴィー朝」との戦争でシャイバニ・ハン死亡。
1512年
ブハラ・ハン国から「ヒヴァ・ハン国」が自立。
1710年
ブハラ・ハン国から「コーカンド・ハン国」が自立。

ロシアの支配→社会主義化→独立へ

19世紀後半になると、ロシアの南下政策により3ハン国は保護国化されました(コーカンド・ハン国は滅亡)。

ロシアの進出

1917年の第二次ロシア革命よりロシアのロマノフ朝は滅び、1922年に「ソビエト社会主義共和国連邦」が成立しました。

ブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国は社会主義の波に飲まれ滅亡し、1924年に3ハン国の領土を含む、ソ連構成国「ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国」が成立しました。

ソ連

1991年のソ連の解体によって社会主義から離脱し、「ウズベキスタン共和国」として独立しました。

1866年
ロシアの進出により、ブハラ・ハン国は敗れ、保護国化される。
1867年
コーカンド・ハン国がロシアに滅ぼされる。
1873年
ヒヴァ・ハン国がロシアにより保護国化される。
1920年
ブハラ革命によりブハラ・ハン国滅亡。
ヒヴァ・ハン国が赤軍により滅亡。
1924年
ソ連構成国「ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国」が成立。
1991年
ソ連の解体。「ウズベキスタン共和国」として独立。

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