ウズベキスタン

ティムール朝の歴史を分かりやすく解説!戦さの天才ティムールと文化人ウルグベク

ティムール ウズベキスタン

ウズベキスタンを観光してると、よく名前を聞く人物としてティムールとウルグ・ベクがいます。

2人とも14世紀末〜16世紀初頭に中央アジアからイランまで支配した大帝国「ティムール朝」の君主で、今もなおウズベキスタンで英雄視されています。

初代君主ティムールはとにかく戦争の天才で支配領域をどんどん広げていき1代で大帝国を築きました。それに対して4代君主のウルグ・ベクは天文学者でもあり、文化面で大いに貢献しました。建築物に関してはティムールよりもウルグ・ベクが造ったものが圧倒的に残っています。

この記事では、ティムール朝の歴史、さらにティムールとウルグ・ベクの2人にスポットを当てて紹介していきます。ウズベキスタン観光がさらに楽しくなると思います!

ウズベキスタン全体の歴史はこちらから。

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ティムール朝家系図

ティムール朝の大まかな家系図です。元画像はWikipediaから拝借しました。7代のアブー・サイード以降は、サマルカンド政権とヘラート政権に国が分かれる衰退期となります。どちらの政権も16世紀初頭に滅ぼされ、ティムール朝は終焉しました。100年と少しだけ続いた息の短い国家ですが、世界史的に見ると稀有な人物を輩出した国だと思います。

ティムール朝

ティムール朝の歴史

まずティムール朝建国の前史です。

13世紀チンギス・ハン率いるモンゴル軍が急速にその勢力を伸ばし、ユーラシア大陸各地へ侵攻しました。その後チンギス・ハンの子孫らは各地にモンゴル系国家を作り、世界史上稀に見る広大な領土を持つモンゴル大帝国が成立しました。

モンゴル帝国の本家となる中国の「元」を宗主国として、中央アジアでは「チャガタイ=ハン国」、西アジアでは「イル=ハン国」、南ロシアでは「キプチャク=ハン国」が支配していました。

モンゴル帝国

14世紀中央アジアを支配していたチャガタイ=ハン国は内部分裂により東西に分かれました。そんな中、西チャガタイからトルコ化したモンゴル系部族出身のティムールが台頭しました。

ティムールは1370年に自立し、都をサマルカンドに置き、イスラム教のスンニ派であるティムール朝を建国しました。彼はモンゴル人チンギス・ハンの後継国家を目指し、西チャガタイ=ハン国、イル=ハン国、キプチャク=ハン国を次々と併合。さらにシリア、インド、小アジアに進出し、最終的に中央アジアから西アジアに及ぶ一大帝国を築きました。

ティムール朝

1404年ティムールは当時中国を支配していた「明」へ遠征しましたが、翌年病気で亡くなりました。

ティムールの死後一時混乱するも、3代シャー・ルフ(位1409~47)と4代ウルグ・ベク(位1447~49)の時代は安定し文化が花開きました。

7代のアブー・サイード(位1451~69)の死後は、政権がサマルカンドとヘラートに分裂して衰退し、1500年にはサマルカンドが、1507年にはヘラートがそれぞれウズベク人のシャイバニに征服されて滅亡しました。

ちなみにサマルカンド政権の生き残りのバーブルはインドのデリーへ入り、1526年に「ムガル帝国」を建国しました。ムガルは「モンゴル」のインド訛りであり、ティムール朝と同じくチンギス・ハンの後継国家として意識されています。

初代君主ティムールとは?

ティムール朝を1代で築き上げた初代君主のティムールは、1336年サマルカンドの南のシャフリサブスにて、トルコ化したモンゴル族の一つバルラス部の一員として生まれました(厳密に言えば現在のシャフリサブス近郊の村)。

背丈は170cmで当時としてはかなり大きく、冗談や嘘を好まない厳格な性格だったようです。肖像画などから想像できるような性格だと思います。

右脚が不自由(怪我か生まれつきかは諸説あり)でしたがそれでも乗馬の技術に長け、また読み書きはできないがテュルク語(トルコ語系)とタジク語(イラン語系)を自由に話し、部下に読み上げさせた文をすべて暗記するほどの優れた記憶力を持っていました。記録によれば芸術も愛し、かなりの教養人だったようです。

左:1380年頃に描かれたと考えられているティムールの肖像画。右:ソ連のミハイル・ゲラシモフによるティムールの復顔像。Wikipediaより。
ティムール
シャフリサブスにあるティムール像。不自由な右脚を庇っているようにも見える。

チャガタイ=ハン国の軍人だったティムールは、国の内紛に乗じて、1370年に首都をサマルカンドに定め、ティムール朝を建国し、瞬く間に周囲の国々を併合していきました。

ティムールの生涯の野望は、チンギス・ハンの後継国家を築くことで、それは中国にあったモンゴル帝国の本家「元」を滅亡させた「明」を打倒することでした。いわゆる復讐という感じでしょうか。

ティムールの民族系統はトルコ=モンゴル系と言われますが、チンギス・ハンの血統ではなく、実質的にはトルコ人です。しかし彼はチンギス・ハンの子孫と称し、自らが軍隊を率いて遠征を行いました。

「明」打倒の前準備として、周囲の国々を打ち負かし帝国の基盤を築きました。彼の戦歴を見ると、負けなし、戦争の天才と言えます。

①イラン・ロシア遠征(1380年)
イスファハーンを占領し、モンゴル系国家「イル=ハン国」を吸収。その足で北西に向かい同じくモンゴル系国家「キプチャク=ハン国」の都サライを略奪、併合。

②インド遠征(1398年)
インドのイスラム王朝「トゥグルク朝」の都デリーに侵攻し略奪。支配するつもりはなく、膨大な戦利品と多数の捕虜を連行してサマルカンドへ帰る。それらの富がビビハニム・モスクの建造に充てられた。

③シリア遠征(1400年)
アレッポ、ダマスクスを破壊し「マムルーク朝」の勢いを削ぐ。

④アンカラの戦い(1402年)
当時小アジアで勢いのあった「オスマン帝国」をアンカラにて破る。オスマン帝国君主のバヤズィト1世を捕虜とし、オスマン帝国は一時的に滅亡。

ティムール朝

周辺国を併合し、次は念願の「明」の打倒でしたが、残念ながら遠征途中のオトラルで1405年2月18日に病死してしまいました。異常な寒さをしのぐために酒を飲み過ぎたのが原因と言われています。

ティムール本人は生誕地のシャフリサブスへの埋葬を希望していましたが、その希望も叶わず現在はサマルカンドの「グーリ・アミール廟」に眠っています。グーリ・アミール廟は世界遺産となっており、シャー・ルフやウルグ・ベクも眠っています。

グーリアミール廟
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戦争ばかりしていたイメージがあるティムールですが、彼はサマルカンドやシャフリサブスなどの都市を復興し、征服した各地から様々な分野の職人や芸術家、学者を連行し、建設にあたらせました。サマルカンドを破壊したチンギス・ハンの子孫を称するティムールが、サマルカンドを再建したというのが何とも興味深いですね。

こちらは生誕地シャフリサブスに造ったティムールの離宮「アクサライ宮殿」の門です。現在は宮殿は無く、門の遺構のみ建っています。35mの巨大建築です。世界遺産に登録されています。

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サマルカンドに建設した「ビビハニム・モスク」の入口の門です。こちらも世界遺産です。アクサライ宮殿の門に匹敵する巨大建造物です。インド遠征で持ち帰った480本の柱を利用して建設したとのことです。技術的な難しさもあり、結局完成はしませんでした。

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4代君主ウルグ・ベクとは?

ティムール朝4代目君主のウルグ・ベク(在位1447~49年)ですが、ウズベキスタンを観光しているとティムールより彼の名前を聞くことが多いです。マドラサ(イスラム教の神学校)をはじめ、数多くの建物を造っています。特に有名なのはサマルカンドに造った「ウルグ・ベク天文台」です。ウルグ・ベクは君主であると同時に非常に優れた天文学者でもありました。

また、ペルシア語、アラビア語、テュルク語を自由に使い分けることができ、趣味は狩猟、楽器演奏と文化人として申し分ない人物でした。天体観測観測の記録だけでなく、趣味の狩猟の日時や場所、獲物の数などを数年にわたり記録させたことからも彼のまめな性格を垣間見ることができます。

ウルグ・ベクは、1394年に3代目君主のシャー・ルフの長男としてソルターニーイェ(イランの都市)で生まれました。ティムールの孫にあたります。ウルグ・ベクはテュルク語で「偉大な指揮官」を意味しています。

ウルグベク
ソ連時代に発行された切手。右は天文台の復元図。Wikipediaより。
ウルグベク
ウルグベク天文台の近くにあるウルグベク像

父である3代目君主のシャー・ルフは首都をヘラート(アフガニスタンの都市)へ遷都し、ウルグ・ベクは地方都市となったサマルカンドの知事に任命され、40年近くサマルカンドを統治しました。ウルグ・ベクの君主時代は1447年からわずか2年であり、彼の功績はほぼ知事時代のものです。統治者よりも学者としての功績を高く評価されています。ティムールとは正反対の人物ですね。

サマルカンドは彼が統治した40年間で文化が発展する黄金時代を迎えました。有力者による建設事業が盛んに行われ、多くの学者が天文学、数学、暦学などの分野で成果をあげました。

彼の功績の代表的なものがサマルカンドの「ウルグ・ベク天文台」です。イスラム世界屈指の天体観測所であり、ウルグ・ベク本人をはじめ有名な天文学者が多数勤務していました。現在では地下の観測所のみ残っています。世界遺産に登録されています。

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こちらはサマルカンドにある世界遺産レギスタン広場のウルグ・ベク・マドラサです。学校であると同時にここでは天文学が研究されていました。

ウルグベクマドラサ
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ブハラにも同名のマドラサがあります。こちらも世界遺産に登録されています。

ウルグベクマドラサ ブハラ

文化の発展に貢献したウルグ・ベクですが、君主になってわすが2年後の1449年に、息子のアブドゥルラティーフと支配権を巡って争い、最終的に暗殺されてしまいました。享年55歳でした。

また、ウルグ・ベクの天文学研究やマドラサにおける男女の教育の実施などは、イスラムの教えに反すると周囲からの反発もあり、天文台は彼の死後に保守的なイスラム教徒によって破壊されてしまいました。現在天文台が残ってないのはこのような理由のためです。

ウルグ・ベクの遺体はティムールと同様、サマルカンドのグーリ・アミール廟に埋葬されています。ちなみにグーリ・アミール廟も彼により造られました。

ティムールやウルグ・ベクが造った建築物は上記以外にもたくさんあります。彼らの人となりや功績を知った上で観光するのもきっと楽しいと思います。

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