トルコ

オスマン帝国の歴代スルタン解説【後期】近代化→滅亡までの歴史を分かりやすく!30~36代スルタンまで

オスマン帝国の歴史 トルコ

オスマン帝国の30〜36代スルタン(君主)の解説記事です。

オスマン帝国は建国から滅亡までオスマン家の全36人がスルタンに即位しており、一度も断絶することなく何と600年以上も続きました(1299〜1922年)。これは世界史の中でもかなり珍しい国家と言えます。

オスマン帝国の歴史を以下のように3つの時代に分け、全3記事構成で解説します。オスマン帝国の各スルタンはどんな人物で歴史上どんな功績を残したのか、ざっくり分かりやすく紹介していきます。

  • 前期:初代〜11代 建国→全盛期
  • 中期:12代〜29代 権威の衰退→領土喪失
  • 後期:30代〜36代 近代化→滅亡

この記事は、後期:30代〜36代スルタンまでの内容です。近代化→滅亡までの歴史を紐解いていきます。

前期と中期の歴史は以下の記事で解説しています。

オスマン帝国の歴代スルタン解説【前期】建国→全盛期の歴史を分かりやすく!初代〜11代スルタンまで
オスマン帝国の初代〜11代スルタン(君主)の解説記事です。オスマン帝国は建国から滅亡までオスマン家の全36人がスルタンに即位しており、一度も断絶することなく何と600年以上も続きました(1299〜1922年)。これは世界史の中でもかなり珍し...
オスマン帝国の歴代スルタン解説【中期】スルタン権威の衰退→領土喪失までの歴史を分かりやすく!12〜29代スルタンまで
オスマン帝国の12〜29代スルタン(君主)の解説記事です。オスマン帝国は建国から滅亡までオスマン家の全36人がスルタンに即位しており、一度も断絶することなく何と600年以上も続きました(1299〜1922年)。これは世界史の中でもかなり珍し...
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オスマン家系図(30〜36代)

30代〜36代までのスルタンの時代(1808〜1922年)は、オスマン帝国の近代化→滅亡の時代です。以下は30代〜36代までの家系図です。

オスマン帝国の歴史
「オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史」より

近代化→滅亡までの大まかな流れ

30代〜36代スルタンの大まかな歴史の流れを解説します。

この時代はヨーロッパ列強に対抗するために早急な近代化改革に迫られた時代でした。

近代化政策のための大綱である「ギュルハネ勅令」が発布され、一連の改革「タンジマート」(恩恵改革)がスタートしました。スルタン主導の近代化改革で、アジア初の近代憲法も制定されましたが、最終的に皇帝の権限が制限されることを嫌ったアブデュルハミト2世により停止させられ、タンジマートは失敗となりました。

タンジマートは徹底されず上辺だけの改革だったため、もはやヨーロッパ列強の介入を拒むことができず、また帝国内の諸民族の自立の気運も高まっており、オスマン帝国は領土縮小に向かいました。

メフメト5世の時代になると立憲政治が確立し、青年トルコ党が権力を握りましたが、「第一次世界大戦」でオスマン帝国は敗戦国となったため、領土の大半を喪失し滅亡寸前となりました。

そんな国家の危機の中で抵抗運動を開始していた軍人ムスタファ・ケマル・パシャはアンカラに「トルコ大国民議会」を招集し、メフメト6世率いるオスマン政府と対立しました。1922年にトルコ大国民議会はスルタン制廃止を決議し、600年以上続いたオスマン帝国はついに滅亡しました。

㉚マフムト2世:上からの近代化改革

30代目スルタンのマフムト2世です。先代ムスタファ4世の弟です(27代アブデュルハミト1世の息子)。

オスマン帝国の歴史
マフムト2世
(在位1808~39年)
主な出来事

外交・戦争
■第三次露土戦争終結(1812)→負け→ブカレスト条約→ロシアにベッサラビア(モルダヴィア)割譲、セルビアが一部自治権を獲得
■ギリシア独立戦争(1821)→ギリシア独立(1830)
■セルビアが完全に自治獲得(1830):ロシアのプレッシャーにより
■フランスの侵攻(1830)→アルジェリア失う
エジプト・トルコ戦争(1831~):VSムハンマド・アリー(エジプト総督)

国内
■アーヤーン制圧→中央集権化へ
イェニチェリ廃止(1826)→ムハンマド常勝軍設立(西洋式近代軍隊)
ギュルハネ勅令起草

マフムト2世は改革派により擁立されたスルタンであり、その治世は中央集権化と西洋化による帝国の改革を目指したものでした。スルタン主導による上からの近代化改革でした。

国内の改革を優先させるために 、28代セリム3世の時に始まった「第三次露土戦争」を1812年に終結させました。講和条約のブカレスト条約では、ロシアにベッサラビア(モルダヴィア)を割譲し、オスマン支配のセルビアが一部自治権を獲得しました。

マフムト2世は、即位後から長い年月をかけてアーヤーン(地方の有力者)の勢いを削ぎ、中央集権化を目指しました。1826年に反改革派の筆頭であるイェニチェリを廃止し、「ムハンマド常勝軍」という西洋式軍隊を創設しました。200年以上オスマン帝国の政治に介入してきた軍隊イェニチェリはついに幕を閉じました。他にも西洋式の陸軍士官学校の創設、内閣制度の導入、郵便制度の導入、初等教育の義務化など大胆な近代化政策が行われました。

近代化が進む一方で領土の縮小は進んでいきました。1821年「ギリシャ独立戦争」にてギリシャが完全独立、1830年フランスよるアルジェリア占領、セルビアが完全に自治権獲得(ロシアのプレッシャーにより)、などかなり苦しい時代でした。

1831年から始まった「エジプト・トルコ戦争」の最中の1839年にマフムト2世は病死により崩御しました。近代化政策のための大綱である「ギュルハネ勅令」の起草中でもありました。

㉛アブデュルメジト1世:タンジマートの始まり

31代目スルタンのアブデュルメジト1世です。先代マフムト2世の息子です。

オスマン帝国の歴史
アブデュルメジト1世
(在位1839~61年)
主な出来事

外交・戦争
■エジプト・トルコ戦争終結(1840)→エジプトの実質的独立(ムハンマド・アリー朝)
クリミア戦争(1853):VSロシア→勝ち(英仏がオスマンに味方)→ロシアは黒海失う

国内
ギュルハネ勅令発布(1839):近代化政策のための大綱→タンジマート(恩恵改革)の時代へ
改革勅令(1856):キリスト教徒に対する寛容政策(英仏の要求)→各地で不満・暴動

アブデュルメジト1世の治世では、先代マフムト2世の上からの近代化改革を引き継ぎ、マフムト2世の時代から起草されていた「ギュルハネ勅令」を1839年に発布しました。内容はオスマン帝国のイスラム国家としての根幹を変えず、西洋近代化するという宣言でした。イスラム、非イスラムを問わずオスマン帝国の臣民として法の前で平等であること、裁判を公開すること、刑事犯を人道的に扱うこと、徴税請負制度の廃止、徴兵と兵役義務の整備、紙幣の導入、戸籍制度の制定など、様々な面における近代化政策が表明されました。ギュルハネ勅令発布から行われたオスマン帝国の一連の改革は、アブデュルメジト1世死後も引き継がれ、「タンジマート」(恩恵改革)と呼ばれています。

外交では、先代から続いていたエジプト・トルコ戦争が1840年に集結しました。エジプト総督のムハンマド・アリーがエジプト支配権を勝ち取り、エジプトは実質的に独立しました。

1853年に南下政策を強めたロシアとの間で「クリミア戦争」が勃発しました。ロシアの進出を警戒したイギリスやフランスの支援があり、オスマン帝国は勝利しましたが、莫大な戦費負担で財政は圧迫されました。またイギリスやフランスの圧力により、1856年に帝国内のキリスト教徒に対する寛容政策を表明する「改革勅令」が発布されました。ムスリムと非ムスリムの差が亡くなり、これにより各地で不満が上がり、暴動が起きました。

そんな中アブデュルメジト1世は病死により崩御しました。

㉜アブデュルアズィズ/㉝ムラト5世:言論弾圧と独裁

32代目スルタンのアブデュルアズィズ(31代アブデュルメジト1世の弟で30代マフムト2世の息子)、33代目スルタンのムラト5世(31代アブデュルメジト1世の息子)です。

オスマン帝国の歴史
アブデュルアズィズ
(在位1861~76年)
オスマン帝国の歴史
ムラト5世
(1876年)

アブデュルアズィズはタンジマートを引き継ぎ近代化を目指す一方で、宮殿の造築や贅沢な暮らしを続けており、さらにクリミア戦争の負債、飢饉や不況も重なり帝国は1875年に事実上の破産となりました。それに伴い増税を課したため、バルカン半島諸民族の反乱に繋がりました。

また、この頃からタンジマートの不徹底さに不満を持つ「新オスマン人」という若い知識人らが登場ししました。彼らは西洋の立憲政治を導入して、自由主義や国民国家を実現することを主張しました。しかしアブデュルアズィズは近代化は目指すものの、憲法や議会を創設しようとはせずあくまで専制を目指したため、言論活動を行う新オスマン人らを弾圧しました。次第に強権政治に対する不満が募りクーデターにより廃位となりました。

その後に即位した33代スルタンのムラト5世は、新オスマン人と繋がりがあり、即位前から長年アブデュルアズィズの監視下に置かれていたため、精神的に病んでいました。即位後も完治せずわずか93日で退位となりました。

㉞アブデュルハミト2世:立憲君主制確立と恐怖政治

34代目スルタンのアブデュルハミト2世です。先代ムラト5世の弟です(31代アブデュルメジト1世の息子)。

オスマン帝国の歴史
アブデュルハミト2世
(在位1876~1909年)
主な出来事

外交・戦争
露土戦争(1877):VSロシア→負け
サン・ステファノ条約(1878):ロシアは黒海沿岸に領地を拡大、セルビアとモンテネグロとルーマニアが独立、ブリガリアは自治獲得(実質ロシアの保護国化)
ベルリン条約(1878):サン・ステファノ条約が大きく修正→ロシアの南下政策を回避
■フランスがチュニジア保護国化(1881)
■イギリスがエジプト保護国化(1882)
■ブルガリア独立(1908)

国内
ミドハト憲法制定(1876):アジア初の近代憲法→第一次立憲制へ→非常事態宣言により停止(1878)→アブデュルハミト2世の独裁政治へ
■アルメニア人、アッシリア人、ユダヤ人の虐殺
青年トルコ革命(1908):憲法復活→第二次立憲制

アブデュルハミト2世の即位後、オスマン帝国はバルカン半島の諸民族の反乱に介入してきたロシアと対立していました。諸外国の支持をもらうため、オスマン帝国はさらに近代化政策を進める必要性があり、1876年に「ミドハト憲法」の制定と議会の設置がされ、「第一次立憲制」がはじまりました。ミドハト憲法はアジア初の近代憲法でした。しかしアブデュルハミト2世は憲法によって皇帝の権限が制限されることを警戒しており、憲法には戒厳令などスルタンの強い権限が明示されてました。

アブデュルハミト2世即位の翌年1877年にロシアと「露土戦争」が勃発しました。ロシアの近代化を進めたアレクサンドル2世が南下政策を再開し、バルカン半島の諸民族の反乱を契機にオスマン帝国に宣戦布告しました。オスマン帝国とロシアは何度も戦争をしていますが、一般的に露土戦争と言えば1877年のものを指すことが多いようです。戦争はオスマン側が劣勢であり、政府への批判や不満が増えていったため、1878年にアブデュルハミト2世は非常事態宣言により憲法を停止し、議会も閉鎖しました。こうして第一次立憲制はあっという間に終焉しました。アブデュルメジト1世から始まったタンジマート(恩恵改革)は、憲法停止を以て失敗したと評されています。

戦争はロシアの勝利に終わり、1878年の「サン・ステファノ条約」ではロシアは黒海沿岸に領地を拡大、セルビアとモンテネグロとルーマニアが独立、ブリガリアは広大な領土の自治権獲得(実質ロシアの保護国化)など、オスマン帝国のバルカン半島の支配は一気に後退しました。その後このようなロシアの南下政策を警戒したイギリスとオーストリアが反発し、ドイツのビスマルク宰相の仲介のもと同年「ベルリン条約」が結ばれ、サン・ステファノ条約は大きく修正されました。ロシアのバルカン半島進出は阻止されましたが、オスマン帝国がバルカン半島の領土の多くを失ったことに変わりはなく、帝国の重心は徐々にアナトリアへ移りました。

アブデュルハミト2世は憲法停止後、秘密警察の結成など恐怖政治を断行しました。民族の権利を主張するアルメニア人やアッシリア人、ユダヤ人の虐殺など激しい弾圧を行いました。

露土戦争後も領土喪失は止まりませんでした。1881年にフランスによるチュニジア保護国化、1882年にイギリスによるエジプト保護国化、1908年ブルガリアの独立などです。

30年近く続いたアブデュルハミト2世の独裁政治でしたが、国民の不満が爆発し、1908年に憲法復活を求める政治団体「青年トルコ党」(統一と進歩委員会)による「青年トルコ革命」が起き、「第二次立憲制」が始まりました。1909年にアブデュルハミト2世は議会の決議により廃位となりました。

㉟メフメト5世:第一次世界大戦への参戦

35代目スルタンのメフメト5世です。先代アブデュルハミト2世の弟です(31代アブデュルメジト1世の息子)。

オスマン帝国の歴史
メフメト5世
(在位1909~18年)
主な出来事

外交・戦争
■イタリア・トルコ戦争(1911)→リビア失う
第一次バルカン戦争(1912):VSバルカン同盟(セルビア/ブルガリア/モンテネグロ/ギリシア)→負け→アルバニア独立、マケドニア分割、クレタ島がギリシア領へ
第二次バルカン戦争(1913):VSブルガリア→勝ち→ブルガリアの領土縮小
第一次世界大戦へ参戦(1914~):同盟国側に参加

国内
アルメニア人虐殺(1915~16)

メフメト5世の治世では、青年トルコ党が立憲君主制の確立を目指しました。先代アブデュルハミト2世時代の反省から、皇帝の権力に制限を加えた内容に憲法改正されました。しかし立憲政治の方針を巡り青年トルコ党内部でも対立があり、政治不安が続きました。

外交に関しては相変わらず領土縮小へ向かいました。1911年の「イタリア・トルコ戦争」ではオスマン帝国はリビアを失いました。1912年にはアルバニアの独立を巡りバルカン半島諸国(バルカン同盟: セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシア)と対立し、「第一次バルカン戦争」が勃発しました。結果はオスマン帝国が負けで、アルバニア独立の承認、マケドニアはセルビア・ブルガリア・ギリシアにより分割、クレタ島喪失となり、オスマン帝国のヨーロッパ側の領土はイスタンブールのみとなりました。1913年の「第二次バルカン戦争」は、マケドニアの分配に不満を持ったブルガリアがセルビア・ギリシアへ侵攻したことで始まりました。領土拡大の野心を持つブルガリアを恐れたオスマン帝国はセルビア・ギリシア側に付き、結果はブルガリアの敗北で終わりました。

オスマン帝国の歴史
バルカン戦争相関図
世界の歴史まっぷより

第二次バルカン戦争で頭角を表した青年トルコ党のエンヴェル・パシャは帝国の実権を握り、ドイツ帝国と同盟を結びました。1914年から始まった「第一次世界大戦」ではオスマン帝国は同盟を理由にドイツ側(同盟国側)に参戦しました。しかし、連合国軍(イギリス・フランス・ロシア)の前で次第に戦況は不利になっていきました。そんな中1918年にメフメト5世は死去し崩御となりました。

また、この頃青年トルコ党内部では、トルコ民族としての自覚を国家統一の理念にしようという「トルコ民族主義」が有力になり、帝国内の他の民族との大きな軋轢が生まれるきっかけとなりました。第一次世界大戦中、ロシアとの戦場になったアナトリア東部ではオスマン帝国による「アルメニア人虐殺」が行われ、帝国内に住むアルメニア人の多くが犠牲になりました(100万〜150万人)。政府による計画的なジェノサイドだったと言われていますが、現在トルコ政府は否定しています。

㉟メフメ6世:オスマン帝国滅亡へ

36代目スルタンのメフメト6世です。先代メフメト5世の弟です(31代アブデュルメジト1世の息子)。オスマン帝国最後のスルタンです。

オスマン帝国の歴史
メフメト6世
(在位1918~22年)
主な出来事

外交・戦争
■第一次世界大戦降伏(1918)→休戦協定にてイスタンブール占領される
■ギリシア・トルコ戦争(1919)→ムスタファ・ケマル・パシャ率いるアンカラ政府軍が撃退
セーブル条約(1920):第一次世界大戦の敗戦条約→帝国の領土の大部分失う

国内
ムスタファ・ケマル・パシャがトルコ大国民議会を召集(1920)→オスマン政府と対立
スルタン制廃止(1922):トルコ大国民議会で決議→オスマン帝国滅亡

メフメト6世も即位後は先代メフメト5世と同じく実権はなく、青年トルコ党が政権を担っていました。

メフメト5世時代に始まった第一次世界大戦では、オスマン帝国は不利な状況が続いてました。1918年に降伏することで首都イスタンブールは連合国側に占領され、エンヴェル・パシャは国外へ逃れ青年トルコ党は解体、帝国は滅亡の危機を迎えました。

1919年にはギリシアがイズミルに侵攻し、「ギリシア・トルコ戦争」が勃発しました。国家の危機の中で抵抗運動を開始していた軍人ムスタファ・ケマル・パシャはアンカラに「トルコ大国民議会」を召集しました。大国民議会の元に組織されたアンカラ政府軍は抵抗を続け、ギリシア軍を撃退しました。

また、1920年に結ばれた、第一次世界大戦の敗戦条約である「セーヴル条約」はオスマン帝国の領土の大半が連合国により分割されるという屈辱的な内容でした。ムスタファ・ケマル・パシャはこれに猛反発し、条約を受け入れたイスタンブールのオスマン政府軍と対立しました。オスマン政府軍を圧倒し権力を握ったトルコ大国民議会は、1922年に満場一致で「スルタン制廃止」を可決しました。メフメト6世はイギリス軍艦でマルタ島に亡命し、600年続いたオスマン帝国の歴史は幕を閉じました。

ムスタファ・ケマル・パシャは1923年に連合国側と新たに「ローザンヌ条約」を締結して領土を回復し、トルコ共和国の初代大統領に就任しました。

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