ポルトガルのざっくりした歴史解説と世界遺産の紹介です。なるべく分かりやすく簡単に解説していきます。
ポルトガルはヨーロッパのイベリア半島に位置する国で、ユーラシア大陸最西端にあります。大西洋に面しており、スペインの隣の国です。

イベリア半島は古代からフェニキア人、ギリシャ人、ローマ人、ゲルマン人と様々な民族が流入し、8世紀にはアラブ人の支配によりイスラム化しました。その後キリスト教国家によるレコンキスタ(再征服)が始まり、イスラム勢力が排除され、15世紀以降ポルトガルとスペインは大航海時代を迎えました。ポルトガルはアフリカやアジア、南米大陸に広大な植民地を手に入れ黄金時代を築きましたが、次第にその地位を失い、20世紀には共和政国家となりました。
この記事ではポルトガルの歴史の解説と世界遺産を簡単に紹介します。
ポルトガルの歴史年表
ポルトガルの歴史年表です。ポルトガルの歴史は隣のスペインとは切り離せないので、スペインの歴史も簡単に入れてます。古代~イスラム化するまでとレコンキスタ以降の2つ作りました(誤りがあったらすみません)。
古代~イスラム化

レコンキスタ以降~現在

様々な民族の侵入~ローマの支配
イベリア半島には初期から人類が進出しており、旧石器時代~新石器時代には様々な文化が生まれていました。紀元前1000年頃に北方に住んでいたケルト人がイベリア半島に移住し、先住民と混ざっていきました。紀元前8世紀頃にはフェニキア人やギリシャ人の侵入があり、多くの植民都市が造られました。紀元前5世紀頃になるとフェニキア人の都市国家「カルタゴ」がイベリア半島の植民都市を支配しました。

紀元前264年から始まった「ポエニ戦争」でカルタゴはローマに敗れ、イベリア半島はローマの領土となりました。紀元前19年、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスによりイベリア半島は3つの属州に区画され、完全にローマの支配下となりました。

ゲルマン人の侵入~イスラム国家の成立
4世紀以降、中央アジアのフン族に押し出される形で、世界史上の大事件「ゲルマン人の大移動」が始まりました。ゲルマン人の各民族は西ヨーロッパ(ローマ帝国領内)の各地にゲルマン国家を建国し、キリスト教(アリウス派)を信仰しました(西ローマ帝国は476年に滅亡)。5世紀にはイベリア半島にてゲルマン人国家「西ゴート王国」や「スエビ王国」が建国されました。

7世紀にアラビア半島で生まれたイスラム教は、ジハードによる征服活動で急速に勢力を広げていました。711年にはイスラム帝国「ウマイヤ朝」がイベリア半島に進出して、西ゴート王国を破りました。ウマイヤ朝はその後アッバース朝に倒されましたが、756年にその生き残りが「後ウマイヤ朝」をイベリア半島に建国しました。首都コルドバを中心としてイベリア半島はイスラム化していきました。

レコンキスタの始まり→ポルトガル王国(ブルゴーニュ朝)成立
711年に西ゴート王国は滅亡しましたが、イスラム勢力に抵抗を続けた西ゴート王国の生き残りの貴族ペラーヨはイベリア半島北西部にまで逃れ、718年にキリスト教国家「アストゥリアス王国」を建国しました。その後、後継国家「レオン王国」「カスティリャ王国」などが成立し、11世紀頃から、キリスト教国家によるイスラム勢力からイベリア半島を奪回する運動「レコンキスタ」が本格化しました。レコンキスタは再征服(Re conquista)という意味です。
以下の地図はレコンキスタの大きな流れです。キリスト教国は大きな目標はイスラム勢力排除ですが、お互いに協力する時もあれば対立することもありました。イスラム勢力は徐々に排除されていき、最終的に1492年スペインによりレコンキスタ完了となります。

レコンキスタの中で、ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスがカスティリャ王国から独立し、1139年にアフォンソ1世として「ポルトガル王国」(ブルゴーニュ朝)を建国しました。1249年に他のキリスト教国より先にレコンキスタを完了させて、国内の整備、海外進出の準備へと舵を切りました。

ブルゴーニュ朝年表
| 年号 | 内容 |
| 1139年 | オーリッケの戦いでアフォンソ・エンリケスがイスラム国家「ムラービト朝」を破る。 →アフォンソ1世として「ポルトガル王国」(ブルゴーニュ朝)を建国。 |
| 1143年 | サモーラ条約→カスティリャ王国アルフォンソ7世がアフォンソ1世の王位承認。 |
| 1147年 | サンタレン、リスボンをイスラム勢力から奪還。 |
| 1249年 | ファロ、シルヴェスを奪還し、ポルトガルのレコンキスタ完了。 |
| 1255年 | コインブラ→リスボン遷都。 |
| 1290年 | ディニス王の時代。 リスボンに大学創設→後にコインブラへ移転しコインブラ大学となる(1308年)。 |
| 1297年 | カスティリャ王国との国境画定(ヨーロッパ最古の国境線)。 |
| 1317年 | ポルトガル海軍創設、キリスト教騎士団新設。 |
| 1348年 | ペスト大流行→ポルトガル人口の1/3が減少。 |
| 1383年 | ポルトガル王女ベアトリスがカスティリャ王国フアン1世と結婚しポルトガル王位に就く。 →カスティリャ王国に併合される可能性があり、アヴィス騎士団長ドン・ジョアンらが対立。 |
| 1385年 | コインブラで開催されたコルテス(身分制議会)にてドン・ジョアンがポルトガル王に選出され、ジョアン1世として「アヴィス朝」を創始。 アルジュバロータの戦い →ジョアン1世がカスティリャ王国軍を破る。 |
大航海時代へ:ポルトガル王国(アヴィス朝)
1385年にコインブラで開催されたコルテス(身分制議会)にてアヴィス騎士団長ドン・ジョアンがポルトガル王に選出され、ジョアン1世として「アヴィス朝」を創始しました。

ポルトガルはアヴィス朝時代に大航海時代が始まります。まだレコンキスタの真っ最中だったスペインよりも先に海外進出を果たしました。ポルトガルはアフリカ、アジア、南米へ進出し、広大な植民地と莫大な富を手に入れ黄金時代を築きました。エンリケ航海王子の航路開拓やヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓が有名です。また、日本にも到達しており、鉄砲伝来や南蛮貿易など日本との関係性は深いです。
ポルトガルやスペインによる大航海時代の主な背景は以下となります。
- ヨーロッパにおける香辛料の需要の増大
- オスマン帝国の台頭により東方が交易不全(新たなルートの開拓が必要)
- 羅針盤などの技術の発展が大規模な航海を可能にしたこと
- カトリック教会の布教願望 など

アヴィス朝年表
| 年号 | 内容 |
| 1385年 | コインブラで開催されたコルテス(身分制議会)にてアヴィス騎士団長ドン・ジョアンがポルトガル王に選出され、ジョアン1世として「アヴィス朝」を創始。 アルジュバロータの戦い →ジョアン1世がカスティリャ王国軍を破る。 |
| 15世紀初頭 ~中頃 | エンリケ航海王子による航路開発→アフリカ大陸へ セウタ(モロッコ)占領(1415)/マディラ諸島占領(1420)/アゾレス諸島占領(1431)/セネガル到達(1435)/ヴェルデ岬到達(1445)/シエラレオネ到達(1447)/ギニア到達(1455)など。 |
| 1488年 | バルトロウ・ディアスが喜望峰(アフリカ大陸最南端)に到達。 |
| 1494年 | トルデリシャス条約→スペインとの世界分割協定。 |
| 15世紀末 ~16世紀初頭 | マヌエル1世の時代→アジア、南米へ ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路開拓(1498)/カブラルがブラジルに到達(1500)/ゴア占領(1510)/スリランカ占領(1510)/マラッカ占領(1511)/モルッカ諸島到達(1514)/ホルムズ占領(1515)など。 |
| 1529年 | サラゴサ条約→スペインとの世界分割協定。 |
| 1543年 | 種子島到達→日本に鉄砲伝来。 |
| 1550年 | 平戸に商館建設→日本との南蛮貿易。 |
| 1557年 | マカオ到達。 |
| 1580年 | 後継者がおらずアヴィス朝は断絶。 |
ポルトガル・スペイン同君連合(ハプスブルク朝)
1580年にアヴィス朝が断絶した後は、当時のスペイン王朝ハプスブルク家のフェリペ2世がポルトガル王位に就きました。スペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合の時代です(中身は併合に近い)。紛らわしいですが、フェリペ2世はポルトガル王としてはフェリペ1世と名乗っています。フェリペ2世はポルトガル王としてポルトガルの植民地を手中におさめ、スペインは「太陽の沈まない国」と言われるようになります。
この時代にはオランダとイギリスが新たに海外へ進出し、ポルトガル海外植民地は大幅に喪失しました(モルッカ諸島、スリランカ、ホルムズ、マラッカなど喪失)。

1640年にスペイン国内で起こったカタルーニャの農民反乱を契機に、ポルトガルは独立し、ジョアン4世によって「ブラガンサ朝」が創始されました。
ポルトガル王国(ブラガンサ朝)
1640年に成立した「ブラガンサ朝」はポルトガル最後の王朝です。この時代のポルトガルは植民地であるブラジルで金鉱やダイヤモンド鉱が発見されたことで、18世紀頃に大きく経済成長しましたが、その後リスボン大地震やナポレオン侵攻、ブラジルの独立などにより徐々に衰退していきます。また、19世紀には王政から立憲君主制に移行しました。
ブラガンサ朝年表
| 年号 | 内容 |
| 1640年 | スペインから独立し、ジョアン4世が「ブラガンサ朝」創始。 |
| 1693年 | 植民地ブラジルにて金鉱発見。その後ダイヤモンド鉱も発見。 →大きく経済成長へ。 |
| 1701年 | スペイン継承戦争。イギリス側につく。 |
| 1755年 | リスボン大地震により壊滅。繁栄の時代の終わり。 |
| 1807年 | フランスのナポレオンが侵攻。 →当時の王マリア1世がブラジルへ逃れる。リオデジャネイロ遷都(1808年)。 |
| 1808年 | イギリスのウェリントン将軍と民衆が結束してナポレオン軍撃退。 →ポルトガル王はブラジルから戻らず。実質イギリスの支配状態へ。 |
| 1815年 | ポルトガル・ブラジル連合国成立(ポルトガルとブラジル同君連合)。 |
| 1820年 | ポルトガル臨時政府成立→立憲君主制へ。 |
| 1822年 | ブラジルの独立(最大の植民地を失う)。 |
| 1884年 | ベルリン会議。アフリカ分割に関するヨーロッパ列強による国際会議(ドイツのビスマルクが主催)。 →ポルトガルのアフリカ植民地がアンゴラ、ギニアビサウ、モザンビーケのみになる。 |
| 1910年 | 1910年10月5日革命。→共和党の反乱によりマヌエル2世が国外に逃亡しブラガンサ朝は終焉。ポルトガルは共和政となる。 |
ポルトガル共和国
ポルトガルは共和国となりましたが、政治的に安定はせず(第一共和政)、その後軍事政権、サラザールによる第二共和政と独裁政権が続きました。1974年のカーネーション革命によりサラザールは倒れ、民主化しました(第三共和政)が、海外の領土はほぼ喪失しました。1986年にEUに加盟しました。
ポルトガル共和国の年表
| 年号 | 内容 |
| 1910年 | 1910年10月5日革命→リスボンにて共和党の反乱。マヌエル2世が国外に逃亡しブラガンサ朝は終焉。ポルトガルは第一共和政へ |
| 1928年 | 軍によるクーデター。カルモナ将軍が大統領に選出され軍部独裁政権が樹立。 |
| 1932年 | サラザールが首相となる。独裁的な全体主義体制へ。第二共和政。 |
| 1939年 | 第二次世界大戦では中立を宣言。 |
| 1961年 | インドの植民地ゴアが独立。 |
| 1974年 | カーネーション革命→独裁政権が倒れ民主化へ。第三共和政。 アフリカの植民地ギニアビサウが独立。 |
| 1975年 | アフリカの植民地アンゴラ、モザンビークが独立。 東南アジアの植民地東ティモールを喪失(インドネシアが併合)。 |
| 1986年 | EUに加盟。 |
| 1999年 | 中国へマカオ返還。 |
ポルトガルの世界遺産
以下がポルトガルの世界遺産となります(Wikipediaにリンク)。
文化遺産
- アゾレス諸島のアングラ・ド・エロイズモの中心地区 1983年
- リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔 1983年
- バターリャ修道院 1983年
- トマールのキリスト教修道院 1983年
- エヴォラ歴史地区 1986年
- アルコバッサ修道院 1989年
- シントラの文化的景観 1995年
- ポルト歴史地区、ルイス1世橋およびセラ・ド・ピラール修道院 1996年
- コア渓谷とシエガ・ベルデの先史時代の岩絵遺跡群 1998年 2010年
- アルト・ドウロ・ワイン生産地域 2001年
- ギマランイス歴史地区 2001年
- ピコ島のブドウ畑文化の景観 2004年
- 国境防衛都市エルヴァスとその要塞群 2012年
- コインブラ大学-アルタとソフィア 2013年
- マフラの王家の建物‐宮殿、バシリカ、修道院、セルク庭園、狩猟公園(タパダ) 2019年
- ブラガのボン・ジェズス・ド・モンテ聖域 2019年
自然遺産
- マデイラ島の照葉樹林 1999年


