2023年4月のマレーシア旅行記です。
クアラルンプール国際空港から世界遺産の街「マラッカ」へ。
2日間の滞在でした。教会や要塞など植民地時代の歴史的建造物や、混ざり合った文化(プラナカン文化)を感じる街並みなど見所が多いです。2回の記事に分けて紹介します。まずは歴史的建造物の紹介です。
記事その2ではチャイナタウンのプラナカン建築などを紹介しています。
世界遺産マラッカとは?
登録名 | マラッカ海峡の歴史的都市群、 マラッカとジョージタウン |
登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2)、(3)、(4) |
登録年 | 2008年 |
世界遺産マラッカは、ペナン島の都市ジョージタウンとともにその歴史的街並みが「マラッカ海峡の歴史的都市群、マラッカとジョージタウン」として2008年に世界文化遺産に登録されました。
2都市の歴史地区が同じ世界遺産として登録されているパターンですね。
マラッカは14世紀末に成立したマラッカ王国の発祥の地であり、東南アジアの最大の交易都市として栄えました。
マラッカは16世紀以降、ポルトガルやオランダ、イギリスといった列強により植民地化され、当時の歴史的建造物を見ることができます。また交易の活発化により数世紀に渡り華僑をはじめ、中国人労働者やインド人労働者の流入があり、様々な文化が混ざった街並みを見ることができます。
ジョージタウンは19世紀以降、マラッカとともにイギリスの植民地となり、イギリス、中国、マレー、インドなどの文化が混ざり合った街並みを見ることができます。
以下はユネスコのサイトのマラッカとジョージタウンの地図です。橙色部分が世界遺産、黄色部分がバッファゾーンとなります。
マラッカの歴史
7世紀頃から東南アジア一体を支配していたマレー人の仏教国家「シュリーヴィジャヤ王国」は、14世紀にジャワ島で起こった「マジャパヒト王国」の台頭により衰退していきました。
シュリーヴィジャヤ王国の王子パラメスワラは、マレー半島に逃れ、14世紀末に「マラッカ王国」を建国しました。1405年には中国王朝「明」に朝貢し、永楽帝よりマラッカ王に封じられました。マラッカ王国は、マレー半島からスマトラ島に及ぶ範囲を支配し、中心のマラッカは東南アジア最大の交易都市として発展していきました。
イスラム商人との交易も活発化しイスラム教が広まると、1414年にマラッカ国王ムラト・イスカンダル・シャーはイスラム教に改修し、スルタン(イスラムの統治者)としてマラッカ王国を治めました。
14世紀頃から大航海時代を迎え海外進出していたポルトガルは、1511年にインド総督アルブケルケを派遣し、マラッカ王国を武力制圧しました。マラッカ王は南のジョホールへ逃れ、マラッカの後継国家「ジョホール王国」を建国しました。現在でもマレーシアのジョホール州として存在し、スルタンが治めています。
1641年にはオランダがポルトガルに代わってマラッカを支配しました。
19世紀になると、今度はイギリスがマラッカを含むマレー半島全体を支配しました。太平洋戦争での一時的な日本の支配の後、独立し、マラッカは現在ではマレーシアの有数の観光地となっています。
マラッカへの行き方
首都のクアラルンプールから長距離バスで訪れることが多いと思われます。3時間ほどで到着します。
今回自分達はクアラルンプール国際空港から直接バスでマラッカを訪れました。乗車券はネットでも簡単に予約可能です。
移動の記事もありますのでご覧ください。
マラッカ旧市街の全体図
マラッカは旧市街が世界遺産の範囲となります。主にマラッカリバーの東側には植民地時代の歴史建造物が並び、西側のチャイナタウンでは文化が混ざり合った独特の街並みを見ることができます(プラナカン文化)。図では世界遺産を構成する主な建築物や遺跡を載せました。
オランダ広場
マラッカと言えば「オランダ広場」ですね。別名レッド・スクエアです。旅行関連のサイトや雑誌などでもよく紹介されている場所です。可愛らしい時計台が建っています。
オランダ広場は、オランダ統治時代に建てられた赤茶色の建物が並んでいるメイン広場となります。常にたくさんの人で賑わっています。
広場内にある噴水は「ヴィクトリア女王噴水」と呼ばれており、これはイギリス統治時代に造られたものです。
キリスト教会
オランダ広場の一角にあるキリスト教会です。
オランダのマラッカ統治100周年記念として1741年に建設が計画され、1753年に完成しました。
オランダはプロテスタントの国であるため、教会はとてもシンプルで質素な造りです。同じキリスト教のカトリックの豪華絢爛な教会とは全く印象が違います。内装も十字架と簡素な祭壇があるのみです。現在も教会として使われています。
スタンドグラスもカトリック教会と違い、とてもシンプルです。
歴史博物館スタダイス
「スタダイス」です。こちらもオランダ広場の一角にあります。
スタダイスとはオランダ語で「議事堂・市役所」を意味します。オランダが1650年に建設し、行政を指揮する役所かつ統括責任者の官邸として18世紀まで利用されていました。
現在では歴史博物館となっています。マラッカの歴史を広く深く知ることができます。じっくり見ると楽しいと思います。マラッカにはスタダイス以外にもたくさん博物館があります。「マラッカスルタンパレス(王宮博物館)」「マラッカ海洋博物館」「マレーシア建築博物館」「鄭和記念博物館」など興味があるジャンルのものに行ってみるのも良いですね。
スタダイスの入場料は20RMでした(2023年4月時点)。中は展示物の量が物凄かったです。
こちらは交易品でしょうか。
武器ですね。
こちらはマラッカ王国時代の通貨とのことです。ワニとか鳥とか魚とか可愛らしいですね。
おそらくマラッカ王宮の模型かと。
引き出しとソファーです。交易で富を築いた豪商の家にあったものでしょうか。
中国王朝「明」の使者がマラッカ王国を訪問してる様子です。
中庭には、明の宦官である鄭和さんの像がありました。彼は大艦隊を率いて、1405年頃マラッカに寄港し、その後インドやアフリカ大陸まで航海しています。西洋の大航海時代に先駆けて、中国は世界を航海してます。
こちらは16世紀頃ですね。ポルトガル人の指揮の元、城壁を築いてる様子ですね。
城壁が築かれ要塞化したマラッカの模型です。今でも要塞跡(城壁の一部など)が残っています。
1941〜1945年の日本支配時代に関する展示もありました。
セント・ポール教会跡
スタダイスの裏の小高い丘の上に建つ「セント・ポール教会」の跡地です。
1521年ポルトガルにより建設されたカトリックの教会です。建設後にイエズス会に引き渡され、日本でも有名なフランシスコ・ザビエルが布教の活動拠点としていました。ここから日本やマカオへも布教をしに行ったんですね。
フランシスコ・ザビエル像です。よく見ると右手がありません。ザビエルが亡くなった後、ローマ教皇にそれを伝えようと右手を送ったため、像には元々右手がないという説があります。真偽は不明ですが。
現在では朽ち果てた状態で壁などが残るのみです。ポルトガルの後にマラッカを支配したオランダやイギリスは、同じキリスト教でもカトリックでなかった(英蘭ともにプロテスタント)ため、特にメンテナンスもされなかったのでしょう。
丘からの景色です。気持ち良いです。遠くに見えるのはマラッカタワーです。展望台ですね。
教会は屋根がなく、ほぼ廃墟ですが何か惹かれるものがあります。
こちらは、1552年12月に46歳で殉教したザビエルの亡き骸を一時的に安置していた場所です。その後亡き骸はインドのゴアへ移送されました。
街中に残る要塞跡
マラッカを制圧したポルトガルは、マラッカ海峡から攻めて来る敵の侵攻に備え、街を城塞化しました。現在でも一部当時の砦跡などが残っています。
ファモサ要塞跡(サンチャゴ砦)
セント・ポール教会がある丘の麓にある「ファモサ要塞跡」です。破壊されて今は門のみですが、マラッカの要塞跡の中では1番綺麗に残っています。
1511年マラッカを武力制圧したポルトガルのインド総督アルブケルケの名前が刻まれていました。
入口上部にはオランダ東インド会社の紋章、その下に「ANNO1670」の文字があります。1670年という意味です。ポルトガルの次に君臨したオランダにより改築されたことが分かります。
内部は特に何もありませんでした。
後ろから見た様子です。素敵です。
近くの自動販売機で、マラッカの色んな建物が彫られてるメダルが売られていました。ファモサ要塞がかなりカッコよかったので記念に購入しました。他にもオランダ広場とかマラッカ王宮などありました。かなり精巧な作りです。気に入ってます。
ミドルバーグ要塞跡
オランダ広場に近くにある要塞跡(砲台跡)です。
要塞の上からはマラッカ川が見えます。完成当時はマラッカ海峡に面してました。
左側がポルトガル時代、右側がオランダ時代に築かれた要塞の壁です。そこまで違いはないですね。
ヴィクトリア要塞跡
名前からしてイギリス時代(19世紀以降)のものかと思いきや、ポルトガル時代のものでした。基壇だけ残っています。マラッカリバーとザビエル教会の間にあります。他にも基壇だけの要塞跡はチラホラ見かけました。
セント・フランシス・ザビエル教会
オランダ広場からマラッカリバー沿いに北東に歩くと「セント・フランシス・ザビエル教会」が見えます。
マラッカの世界遺産マークの建物の近くにあります。
世界各地でキリスト教を布教し続けたザビエルの偉業を称え、1849年にネオ・ゴシック様式で建設されました。
フランス人による設計で、フランスのゴシック様式の教会がモデルとなっています。残念ながら臨時休業で中に入ることはできませんでした。
中庭には、ザビエル像とその隣には日本人のヤジローの像がありました。ヤジローは鹿児島出身の元武士でした。ザビエルはヤジローと出会い、その勤勉さと礼儀正しさに興味を持ち日本への布教を決めたらしいです。ヤジローとの出会いが無ければ、日本にキリスト教は入ってきてなかったかもですね(日本では結局キリスト教は弾圧されましたが)。
まとめ
マラッカの歴史的建造物のまとめです。
- オランダ広場の赤茶色の建物群が可愛らしい
- スタダイスをはじめ、見所ある博物館が多い
- マラッカは日本でも馴染みのあるザビエルと関係が深い街
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