2023年4月のカンボジア旅行記です。
世界遺産「アンコール」巡りです。巨大寺院「プリア・カン」(プリヤ・カーン)へ。
当時約10万人が寺院の運営に当たり、仏教の教義を学ぶ重要な寺院でした。古代ギリシャ神殿のような建物を見れるのもここだけです。
世界遺産アンコールとは?
登録名 | アンコール |
登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1)、(2)、(3)、(4) |
登録年 | 1992年危機遺産として登録→2004年文化遺産として登録 |
世界遺産「アンコール」は、シェムリアップ近郊に位置する、クメール王国アンコール朝時代(802〜1431年)の寺院遺跡群です。アンコール・ワットをはじめとしたヒンドゥー教寺院群で、仏教寺院もあります。レンガや砂岩で造られた芸術的な建築物は大変見応えがあります。
1992年に危機遺産(武力紛争、自然災害などで危機に晒されている遺産)として登録され、2004年に危機遺産を脱し、世界文化遺産として改めて登録されました。
世界遺産アンコールの範囲は、「アンコール遺跡群」「ロリュオス遺跡群」「バンテアイ・スレイ」の3つのエリアからなります。以下の地図はアンコール遺跡のサイトからお借りしました。シェムリアップを拠点に観光することになります。
以下が「アンコール」のエリア別の構成資産です。
アンコール遺跡群
- 【中心部】:アンコール・ワット / アンコール・トム(バイヨン、バプーオン、ピミアナカス、象のテラス、ライ王のテラス、プラサット・スゥル・プラット、南北クリアン、プリア・パリライ、プリア・ピトゥ) / プノン・バケン / バクセイ・チャムクロン / トマノン / チャウ・サイ・テヴォーダ
- 【東部】:プレ・ループ / タ・ケウ / バンテアイ・サムレ / タ・プローム / スラ・スラン / プラサット・バッチュム / バンテアイ・クデイ / 東メボン / プラサット・クラヴァン
- 【北部】:プリア・カン / ニャック・ポアン / タ・ソム / クロル・コー
- 【西部】:西バライ / 西メボン / アック・ヨム
ロリュオス遺跡群
- プリア・コー
- バコン
- ロレイ
バンテアイ・スレイ
- バンテアイ・スレイ
クメール王国(アンコール朝)の歴史
アンコール地方の遺跡群を造ったクメール王国(アンコール朝)の歴史です。
アンコール王朝の前身であるヒンドゥー教国家「真臘」(しんろう)は、南北に分裂し弱体化していましたが、802年にジャヤヴァルマン2世が統一することでアンコール朝が始まりました。首都はハリハラーラヤ(ロリュオス遺跡群)としました。
889年にヤショーヴァルマン1世が、アンコール地域に都城ヤショーダラプラ(後のアンコール・トムを含んだエリア)を建設しました。都の中心としてプノン・バケン寺院が建造されました。
都は一時的にチョック・ガルギャー(コー・ケー)に遷都されるも、すぐにヤショーダラプラに再遷都され、これ以降プレ・ループ、バンテアイ・スレイ、タ・ケウ、ピミアナカス、バプーオンなど各地にたくさんの寺院が造られました。
1113年に王位に就いたスーリヤヴァルマン2世は領土を拡大し、全盛期を迎えます。アンコール・ワットはじめ、トマノンやバンテアイ・サムレなどを建造しました。
1177年にベトナム中部のチャンパーにより首都ヤショーダラプラが陥落し、アンコール地域が占領されるも、1181年に即位したジャヤヴァルマン7世が奪還し、新たに都城アンコール・トムを建設しました。ジャヤヴァルマン7世は大乗仏教の熱心な信者であったため、トム内のバイヨンをはじめ、バンテアイ・クデイ、タ・プローム、プリア・カン、タ・ソムなど、たくさんの仏教寺院を建造しました。
ASEANトラベルより
1431年にタイのアユタヤ朝が侵攻し、アンコール・トムが陥落しました。クメール王国はアンコールを放棄することになり、アンコール朝は終わりを迎えました。これ以降クメール王国は首都を転々とし、タイやベトナムなど外敵の侵入に脅かされる暗黒時代を迎えました。
プリア・カンとは?
創設年 | 12世紀末頃 |
創設者 | ジャヤヴァルマン7世 |
宗教 | 仏教→後にヒンドゥー教も取り入れられる |
形態 | 平地式/展開式 |
建築材 | 砂岩 |
プリア・カン(プリヤ・カーン)は「聖なる剣」という意味です。かつて境内で発見された剣に由来します。アンコール・トムの北大門から1.5kmほど道を北東に進んだ所に位置します。東西800m、南北700mの広さを持ち、3重の周壁に囲まれ、その内側に回廊を巡らした中央祠堂が建っているという複雑な構成です。
プリア・カン(プリヤ・カーン)は、12世紀末頃ジャヤヴァルマン7世(在位1181~1218年頃)により建てられました。一時的にアンコールを支配したベトナムのチャンパー軍を破った地に、父の菩提寺として建てられた仏教寺院です。伽藍の構成は同時期のタ・プロームと似ています。
仏教の教義を学ぶ場として機能し、約10万人が寺院の運営に携わっていたことが碑文で判明しています。
ジャヤヴァルマン7世の死後、ヒンドゥー教信者のジャヤヴァルマン8世により仏像は壊され、仏教とヒンドゥー教の混合寺院となりました。
現在遺跡はかなり崩壊していますが、基本的には1本道で少し寄り道しつつ見学することができます。プリア・カン(プリヤ・カーン)は建築物やレリーフなど他の遺跡と同様見どころは沢山ありますが、最大の見どころは他にない二階建ての古代ギリシャ神殿のような建物です。
以下ではクメール建築を楽しむためのポイントを紹介しています。ご覧ください。
料金・営業時間
プリア・カン(プリヤ・カーン)は「アンコールパス」というチケットで入場できます。
チケット詳細とおすすめ観光ルートを以下の記事で紹介しています。
プリア・カン(プリヤ・カーン)の営業時間は7:30〜17:30です。
プリア・カンの全体図
プリア・カン(プリヤ・カーン)の全体図です。3重の周壁に囲まれた複雑な構成です。タ・プロームと似ていますね。どちらも同時期にジャヤヴァルマン7世により建造されている寺院です。東西どちらからでも入場可能です。中央祠堂周辺はかなり崩壊しており、立ち入り禁止になっている場所もあります。基本的に1本道の見学ルートとなっています。
西塔門から内部へ
西側から入場しました。世界遺産のモニュメントです。
リンガが並ぶ参道を歩きます。朝一で来たので、掃除のおばちゃんしかいませんでした。
リンガをよく見ると、聖獣ガジャシンハが支えてる様子のレリーフが彫られていました。上の部分は元々仏像のレリーフがありましたが、ヒンドゥー教が入ってきてから削り取られたようです。
さらに進むと西塔門が見えてきました。両脇にはアンコール・トムの南大門と同じく、綱(大蛇)を引っ張っている神々と阿修羅の像がありました。「乳海攪拌」の1シーンです。
南大門と同じくかなり崩壊していますが、綱引きしてる様子はよく分かりますね。
西塔門の左右にはラテライトの周壁があり、大きなガルーダのレリーフが彫られていました。ナーガを踏みつけているガルーダです。
さらに進みます。
西門に到着しました。ここから中心部へ入ることができます。頭を削り取られた門番(金剛力士像)2体が入口を護っています。
一本道のルート
中に入ると取り敢えずまっすぐ1本道で進むルートです。
頭の無い仏像がありました。
3つ穴の空いてるリンガ台です。他では見かけないですね。
中央祠堂の内部です。16世紀頃に設置された仏塔です。建設当時はここにジャヤヴァルマン7世の父を模した観音菩薩像があったとのことです。
所々に残るレリーフ群
基本は1本道ですが、寄り道してレリーフを見れるポイントもいくつかありました。崩れていた先に進めないエリアもありました。
元々朱色だったのでしょうか。
削り取られた仏像のレリーフ跡が見えます。
こちらは削り取られず残っていますね。
全体的にかなり崩壊してる遺跡ですね。
踊り子のテラスの出入口上部です。13人の踊るアプサラスです。かなり綺麗に残っています。とても可愛らしいです。
こちらもアプサラスですが、損傷が激しいです。というか部材ごと崩れてますね。
東門まで来ました。東門の内側周壁ではデバターの美しいレリーフがたくさん見れます。
ギリシャ神殿のような建物
プリア・カン(プリヤ・カーン)では、他の寺院にはない二階建ての古代ギリシャ神殿のような建築物を見ることができます。踊り子のテラスの北側に位置します。
柱も円柱でクメール建築らしくない建物ですが、非常に見応えがあります。これを見るだけでもプリア・カンを訪れる価値はありますね。
一説によれば、図書館だったとも言われています。元々木造だった建物をそのままの構造で石造りにしたとのことです。
繋ぎ目がよく分かります。
東門へ
東門から外へ出ました。振り返ると門の左手には巨大なスポアンが回廊を押し潰している様子が見られました。
重さで崩壊しないようにスポアンの上部が切り取られていますが、根はしっかり遺跡に絡みついています。
東門の先にはナーガのテラスがあり、ナーガに跨るガルーダのレリーフが並んでいました。
まとめ
プリア・カン(プリヤ・カーン)のまとめです。
- 複雑な伽藍だが見学ルートは基本1本道なので分かりやすい
- 遺跡はかなり崩壊している
- 周壁のガルーダの大きなレリーフが素晴らしい
- 二階建てのギリシャ神殿のような建物を見るべし
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