カンボジアのざっくりの歴史と世界遺産の紹介です。
カンボジアはクメール王国(アンコール王朝)の歴史が長く、現在のカンボジア人の大部分がクメール人です。シェムリアップからアクセスできるアンコール遺跡群はクメール王国の遺産であり、観光名所となっています。
1970年から22年に渡るカンボジア内戦で多くの人が亡くなったため、65歳以上が殆どいないという歪な人口構成となっています。
カンボジア史年表
カンボジアの歴史のざっくり年表です。ベトナムも少し記載してます。
扶南の成立
1世紀末メコン川流域に「扶南」(民族系統不明)が起こりました。東南アジアで最も早く成立した王国です。
カンボジア南部からベトナム南部までを中心に成立し、3世紀頃にはマレー半島北部あたりまでを支配しました。
交易も活発で、ベトナム南部の港市遺跡オケオからインドの仏像、後漢の鏡、ローマ帝国の金貨などが多数出土しています。
1C末頃 東南アジア最初の王国「扶南」成立。交易で栄える。 カンボジア南部からベトナム南部までを支配。 |
3C頃 扶南の支配がタイランド湾沿岸からマレー半島北部まで広がる。 |
4〜5C頃 インド化し、ヒンドゥー教を受け入れる。 |
クメール王国(真臘、プレ・アンコール王朝)の成立
6世紀以降、扶南に支配されていたクメール人が有力となり、「クメール王国」が建国されました(中国では「真臘」と呼ばれる)。
7世紀には扶南を滅ぼし、扶南と同様、カンボジアからベトナム南部を支配する国家となりました。
扶南を滅ぼしたイーシャーナヴァルマン1世は、イーシャーナプラ(現在のサンボー・プレイ・クック寺院地区)を都としました。ヒンドゥー教を受け入れ、インドの文字を取り入れたクメール語を使用しました。
8世紀以降、南北分裂により弱体化し、南がジャワ島のシャイレンドラ王朝に支配に入りました。
550年 クメール人により「クメール王国」(真臘、プレ・アンコール朝)が成立。 |
612〜628年 国王イーシャーナヴァルマン1世が扶南を滅ぼす。 イーシャーナプラを首都とし、カンボジアから南ベトナムを支配。 |
706年頃 南北に分裂し弱体化。北部:陸真臘、南部:水真臘と呼ばれる。 |
774〜802年 水真臘がジャワ島のシャイレンドラ王朝に支配される。 |
クメール王国(アンコール王朝)の成立
9世紀になると、ジャヤヴァルマン2世により南北統一されました。これ以降「クメール王国アンコール朝」と呼ばれます。首都はハリハラーラヤ(現在のロリュオス遺跡群)としました。
9世紀末には、ヤショーヴァルマン1世により、アンコール地域に都城ヤショーダラプラが建設されました。
10世紀には一時的にチョック・ガルギャー(現在のコー・ケー遺跡群)に遷都されるも、再度ヤショーダラプラが都となり多くの寺院が建設されました(現在のアンコール遺跡群)。
802年 ジャヤヴァルマン2世がシャイレンドラ朝を追い払い、南北統一。「アンコール王朝」の始まり。 都をハリハラーラヤとする。 |
889年 ヤショーヴァルマン1世が、アンコール地域に都城ヤショーダラプラを建設。 |
928年 ジャヤヴァルマン4世により、チョック・ガルギャーに遷都。20年弱の短期間。 |
944年 ヤショーダラプラに再遷都。これ以降アンコール地域にはたくさんの寺院が建造される。 |
クメール王国の全盛期
12世紀にスーリヤヴァルマン2世が即位し、ベトナム中部のチャンパーや西方のタイやビルマの地域まで征服して国力を強めました。
また、スーリヤヴァルマン2世は、1125年から「アンコール・ワット」を建造開始しました。
スーリヤヴァルマン2世の死後、ベトナムのチャンパーにより都ヤショーダラプラは陥落し、アンコール地域は占領されましたが、ジャヤヴァルマン7世により奪還され、首都「アンコール・トム」が建設されました。
ジャヤヴァルマン7世は大乗仏教の熱心な信者であったため、仏教寺院がたくさん造られました(バイヨン、バンテアイ・クデイ、タ・プローム、プリヤ・カーンなど)。
ASEANトラベルより
1113年 スーリヤヴァルマン2世が即位。 領土の拡大。ベトナム中部のチャンパー、タイ、ビルマ、マレー半島あたりまで支配。 |
1125年 スーリヤヴァルマン2世がアンコール・ワット建造開始。 |
1177年 ベトナム中部のチャンパーにより首都ヤショーダラプラ陥落。アンコール地域が占領される。 |
1181年 ジャヤヴァルマン7世即位。チャンパーを追い払う。 |
1190年 ジャヤヴァルマン7世が都城アンコール・トムが建設。多くの仏教寺院を建てる。 |
クメール王国の衰退
13世紀以降、タイにてスコータイ朝、アユタヤ朝が続いて勃興し、アンコール王朝は圧迫されました。1431年にはアユタヤ朝によりアンコール・トムが陥落し、アンコールを放棄することになりました。
その後プノンペンなど首都を転々としました。
また、17世紀後半にはベトナムの広南国がベトナム南部に進出し、クメール王国は南ベトナムの支配も失いました。
タイとベトナムの干渉が続き、王国は両勢力に服従する時代が続きました。
1431年 タイのアユタヤ朝により、アンコール・トム陥落。クメール王国はアンコールを放棄する。 スレイ・サントー(コンポンチャム州)、プノンペンと首都を転々とする。 |
1553〜1618年 ロンヴェク(プノンペンとトンレサップ湖の中間)へ遷都。 |
1618〜1866年 ウドン(ロンヴェクより南)へ遷都。 ベトナムの広南国が南進しベトナム南部の支配を失う。 ベトナムとタイの干渉が続き、クメール王国は弱体化。 |
フランスの保護国時代
19世紀には東南アジアへフランスが進出し、ベトナムに続きカンボジアも保護国化しました。カンボジアは最終的にフランス領インドシナ連邦を構成する一部となりました(ベトナムとラオスとともに)。
この時にカンボジアの大部分を支配していたタイはフランスのカンボジア保護国化を認めることで、領土喪失となりました。
1863年 フランス・カンボジア条約。フランスによるカンボジアの保護国化。 |
1866年 プノンペンへ再遷都。 |
1867年 タイ・フランス条約。フランスのカンボジア保護権を認める代わりに、タイはカンボジア北西部のバッタンバン、シェムリアップを支配。 |
1887年 フランス領インドシナ連邦成立。カンボジアはベトナム、ラオスとともに連邦の構成国となる。 |
独立へ
1940年、第二次世界大戦にてドイツに降伏したフランスはカンボジアを撤退しましたが、今度はそれを受けて日本が進駐しました。また、タイがフランスに奪われたカンボジア領土の回復を要求し、領土の1/4が割譲されました。
1945年、日本は国王シハヌークに独立を宣言させましたが、日本が太平洋戦争で負けてカンボジアを撤退すると、再びフランスの支配が始まりました。
ベトナムがフランスとのインドシナ戦争に苦戦する中、1953年にシハヌークは独立宣言を行い、「カンボジア王国」が成立しました。1955年、インドシナ戦争の講和条約であるジュネーヴ休戦協定にて、カンボジアの独立が承認されました。
1940年 第二次大戦にてナチスに降伏したフランスは東南アジアから撤退。代わりに日本軍が進駐。 タイがフランスに奪われた領土の回復を主張し、カンボジアへ侵攻(タイ・フランス領インドシナ紛争)。 |
1941年 日本の調停により、タイとフランス間で平和条約が結ばれ、タイはカンボジア領土の1/4を獲得。 |
1945年 日本軍が国王シハヌークにカンボジア独立を宣言させる。 |
1946年 太平洋戦争で降伏した日本が東南アジアから撤退し、再びフランスの支配がはじまり、独立は失敗。 |
1953年 ベトナムがフランスとのインドシナ戦争で苦戦する中、シハヌークは粘り強く独立運動を続け、再び独立を宣言。「カンボジア王国」が成立。 |
1954年 ジュネーヴ休戦協定(インドシナ戦争の講和条約)。カンボジアの独立が国際的に承認される。 |
カンボジア内戦
1965年にベトナム戦争がはじまると、シハヌークは北ベトナムを支持し、アメリカと対立しました。
シハヌークはカンボジア領内に、北ベトナムへの支援ルート(ホーチミン・ルート)や南ベトナム解放戦線の基地を置くことを容認しましたが、それを嫌うアメリカはシハヌークを失脚させ、1970年に親米であるロン・ノル将軍に「クメール共和国」を樹立させました。
失脚したシハヌークは、共産主義者のポル・ポト率いるクメール・ルージュと協力し、ロン・ノル政権と対立しました。カンボジア内戦のはじまりです。
1976年、ロン・ノル政権が倒され、シハヌークを国家元首とする「民主カンプチア」が成立しましたが、シハヌークは形だけの幽閉同然の身で、実際はポル・ポト率いるクメール・ルージュが実権を握っていました。クメール・ルージュは貨幣制度廃止、都市住民の農村入植と強制労働といった原始共産主義を掲げ、反乱分子の大量虐殺や飢饉などで100万人以上の死者を出しました。
中国と関係の深いクメール・ルージュは、ソ連を後ろ盾とするベトナムと対立しました(中ソ対立の構造)。1978年にベトナムはクメール・ルージュ打倒を目指しカンボジアに侵攻し、翌1979年には、ベトナムの支援を受けた元クメール・ルージュのヘン・サムリンによる「カンボジア人民共和国」(後にカンボジア国に改称)が成立しました。ヘン・サムリン政権は、ポル・ポト派(クメール・ルージュ)、シハヌーク派(王党派)、ソン・サン派(共和派)の三派連合と対立し、悲惨な内戦が続きました。
第一学習社「最新世界史図表」より
1991年カンボジア和平協定が成立し、22年に及ぶ内戦がようやく終結しました。立憲君主政の「カンボジア王国」が成立し、シハヌークが国王に復位しました。
1965年 ベトナム戦争開始。シハヌークは北ベトナムを支援し、アメリカと対立。 |
1970年 アメリカはシハヌークを失脚させる。シハヌークは北京は亡命。 傀儡政権である「クメール共和国」が成立。軍人ロン・ノルが政権を握る。 シハヌークと共産主義者のポル・ポトが手を組み、ロン・ノル政権と対立(カンボジア内戦のはじまり)。 |
1973年 ベトナム戦争終結。アメリカがベトナムから撤退し、ロン・ノル政権は後ろ盾を失う。 |
1976年 ポル・ポト率いるクメール・ルージュがプノンペンを制圧し、ロン・ノル政権打倒。国名を「民主カンプチア」に改称し、実権を握る。 都市民の強制的な農村移住、通貨の廃止、学校教育や科学技術の軽視など、極端な原始共産主義政策を強制し、反対する人々を強制収容所に送り、大量処刑した。 |
1979年 親ソ・ベトナム政権の「カンボジア人民共和国」が成立(後にカンボジア国に改称)。元クメール・ルージュのヘン・サムリン政権。 親中であるクメール・ルージュと対立。さらにシハヌーク派(王党派)、ソン・サン派(共和派)も巻き込み、内戦は泥沼化していく。 |
1991年 カンボジア和平協定。22年に渡るカンボジア内戦終結。 国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がカンボジアを統治。 |
1993年 立憲君主政の「カンボジア王国」成立。シハヌークが王に復位。 |
現在のカンボジア
ASEANやWTOに加盟し、フン・セン首相の長期政権の元、資本主義を取り入れ、著しい発展を遂げています。特に首都プノンペンは「東洋のパリ」と称されるまでになりました。
2004年にはシハヌークが退位し、息子のノロダム・シハモニが国王に即位しました。
1997年 フン・センが第一首相に就任。 |
1999年 東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟。 |
2004年 世界貿易機関(WTO)に加盟。 シハヌークが退位し、息子のノロドム・シハモニが王に位に就く。 |
カンボジアの世界遺産
- アンコール – (1992年)
- プレアヴィヒア寺院 – (2008年)
- 古代イシャナプラの考古遺跡 サンボー・プレイ・クックの寺院地区 – (2017年)
- コー・ケー:古代リンガプラ(チョック・ガルギャー)の考古遺跡 – (2023年)
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